先生! 私、自殺しそうです
坐禅を考えたのは二年前の事でした。ここまで来るのに随分長い道程であったように思われます。私は無想会(書道)の会員でした。会長井上竜山先生にとっては出来の悪い手のかかる、おまけに座を賑やかす門下生なので目立っていたのではないかと思う。
私は仏教の育ちではないので、専業の和尚様に接するのは初めてであり、いつものように好奇心の塊で竜山先生を見ていました。私などに見える筈がないのに・・・・全く私の分からない宗教界のお方であり人生の大先輩、無知の強さというものでしょうか。
竜山先生は和尚様でありながら人間臭さは人一倍、私にはない大きな大きな素直さ一杯のおかたでしたから、私はそんなところに非常に引かれていったのです。一年数ヶ月経っても、竜山先生の素直さを真似することすら出来ませんでした。
二年前の八月の終り、悲しいことに私は勝運寺の井上竜山先生に救いの電話をかけなければならなくなっていたのです。しばらくすると、もう一人の和尚様と一緒に来られ、「玉桂さん、どうしました?」と言って部屋に入って来られました。
「すみません。今の私は宗教家にしかすがれないような気がしまして・・・・」あきらめしか無かった私は、竜山先生のお顔を見た時よりずっと涙の切れる時がありませんでした。
「いいんですよ。あなたのような人の為に私たちが居るのですから。あなたのような人を救うのが私たちの使命ですから。」そう言われました。涙はシャックリをともなって一層出るばかりでした。
本と和裁道具、少しの台所用品、数枚の着替え、夏から初秋にかけての外出用服と靴を数着ぶん、それだけもって家を出てアパート住い八日目頃でした。
竜山先生は、もう一人の和尚様を紹介して下さいました。
「私の弟です。こういう問題は弟の方が適切ですから。」それだけ言われると、後は全くお話をされることなく、黙ってじっと私を見つめておられるだけでした。
弟さんとは井上希道師のことであり海蔵寺のご住職様です。その時は竜山先生の弟さん、ただそれだけでお名前など知ろうとも思っていなかったのです。弟さんの第一声は、
「私は来なかった方がよかったですか?」語っては涙、話しては涙の私でしたが心の中で(何を考えているのだ、この人は!)弟さんがどんなお気持ちで来て下さったのかその時は知るよしもありませんでしたので・・・・
「いいえ!」シャックリの中から何とかはっきり意思表示をしなくてはと一生懸命発した言葉でした。
第二声は、「以前、何処かでお会いしたことがありますね。」
「はい。」
忘れもしない初めて参加した無想会の作品発表会の席、「貴女の作品はどれですか? ははー、評するに値しない作品ですね。」(そうだけれど、少しきびしいな)うつむいている私に、
「まだ間がないのですか?」と聞かれました。
「はい。」[こんな字しか書けないのだから、長くやっている筈がないでしょう!)とむくれてしまって、早速竜山先生に、「・・・・だから私、この度は出品したくないって言ったでしょう!」とすねて言ってしまいました。先生は俄かに真剣な顔になり、
「誰ですかそんなケシカラン事を言ったのは!」
「はい、もう一人の和尚様です。」すると急に先生のお顔からきびしい表情が消え、
「あれは弟で、思ったこと、本当の気持ちを素直に言う、至ってさっぱりとした人間ですよ。」
「じゃ、やっぱり私のは評する価値の無いということじゃ無いですか!」
先生はやや困り、少し面白そうに、
「弟にも困ったものだ、もうすこし同情的に言ってくれたらいいのに・・・・」と二ッコリされ、弟さんの言われた事をすんなり受入れられているようでした、私同様に。本当なら女心からしてもっと傷つく筈なのに・・・・
しかし、思ったのです。これだけのスケールで会員以外のお方に見て頂くとなると、それだけ厳しい評価をされて当たり前、変な作品を出しては先生が笑われる、自分で見て[まあ何とかいける]と思える程になるまでは、作品と言えないから二度と出品はしない、と。
その後、幾日もたたない或る日、或る事業所の臨時職員であった私は、「建物共済加入同意書」の中の[忠海町、井上希道氏]なる人名に振り回されてしまいました。その同意書に押された印は、四角くて大きく、誰にでもはっきりと[井上希道]と読めるものでした。その自信の強さに圧倒されたのでした。画然としてー般の印とは違うものでした。そこからさりげなく漂う響きは、年齢六十才過ぎ、庭の良く手入れされた普通の家より大きくて閑静な立たずまい、回りからは頑固で変人的一面をもって人物評価をされ、借家だったりしたら色々にはみだす様な至って自由人、そのくせ一枚の落葉に年がいもなく感傷的になったりする心の若い老人。
私の好奇心は戸別地図をのぞき込んで、その老人の家を探したのですが、しかし幾ら探しても井上希道氏の家は無いのです。電話帳を見ると忠海町にちゃんとあるのです。しかし何処に有るかは遂に判明しないままでした。提出した書類の中の勝運寺の件で注意された日でもあったのです。
「玉桂さん、井上竜山氏は貴女の師でしょう。寺は扱いが違うのですよ。」(臨時の職員に何一つ説明しないで、扱いが違うなんてひどいな・・・・)
その日、なぜかお習字の日でした。早速竜山先生に又ぐちりました。
「今日、井上さんは私にとっては鬼門でした。寺は扱いが違うと言って怒られるし、井上希道氏の家は見つからないし・・・・」
ここまでお話しをすると、竜山先生は井上希道氏の任所をさも親しそうに当然のように言われたのです。同じ井上姓である事を尚も深く考えなかったのです。そして、「是非井上氏なる愛すべき頑固老人に会って見たい」と思いながら、日がたつにつれて忘れていったのです。
何時の間にか紅葉の時節も桜の時節も終わり、その間に私は白分の置かれている状況の中で生きる意義や喜びを失っていったのです。代りに絶望の空しい諦めの日々に悶々として、太陽も月も星も花も、朝も昼も夜も、愛する両親も兄姉も、遂に自分の人生もその肉体も呪う毎日でしかありませんでした。世間によくある主人とお姑さんに付いて行けなかったのです。それが更にこうじて行ったのです。誰に相談しても親身になってもらえず、また信じては下さらないのです。
心のよすがを失った時に、私のお願いでも聞て頂けそうな竜山先生は唯一の救いの師であられたのです。紹介された弟さんとの出会いは既にこんな歴史があり、こんな時のアパートでの再会でした。
(電話一本で忠海から来て頂いたのは嬉しいのですが、幾ら弟さんの方が適切だからといっても、私は 竜山先生! 貴方に救いを求めおすがりしたのですよ! 私は決して人なつこい方ではありません。充分納得しないと、相手様がどんなに素晴らしい方でも受入れる事が出来ないのです。それなのに・・・・)
ただ、黙ってじっと見つめておられる竜山先生と、お医者様が助ける為に人の体を切り裂いて行くあの慈悲の残酷さを地で行っている様な弟さんと、際だった対照でした。
竜山先生は何処までも優しくて暖かくて、弟さんはメスを持って近づくお医者様の怖さがありました。それまでは一方的に話していた私も、次第に言葉を失っていったのです。
「人間一度は死ぬのだ。自分の人生を自分で始末を付けて行くのは理想だが、今の貴女にそれは出来る筈もない。何となれば、生きるべくして生きている人のみが出来ることだから・・・・
貴女のように自分の心に振り回されて人を恨み、人を呪い、自分をも呪い捨てているような事では人間として支えていく心の源が無いから・・・・
そんな貴女に出来ることは、ただ空しく呪って、悔しまぎれ腹たちまぎれ当てつけのために、残された一塊の肉体でささやかな復讐を試みる事ぐらいだろう。」
(・・・・そうかも知れない。)
聞く耳さえ失っている時、重苦しくのしかかって来る思い掛けない言葉に、新たな戸惑いを感じていたのです。
「そんなのは人生の始末を付けるのでも何でもない。希望を失い平静を失い、代りに巨大な恨みがましさが貴女を混乱させ狂わせているまことに御粗末の極み、哀れと言うもなかなか愚かなり。」
(何よ、もう私は死ぬ決心をしているのだから、今更ご大層なお説教なんか聞かせて貰っても関係無いのよ。それに何さ、修行しているからって結構なことを言ってくれるじゃないの。私は苦しみ苦しみ苦しみ抜いた果てに、ようやく死を決行しようとしている人の心の限りない痛みが、和尚さん! 貴方に分かるとでも言うのですか!)
「人様の人生をとやかく言うてはならないが、人の生き死にに関する限り、例え貴方の命であったとしても、貴方の肉体であっても、人のエゴによって勝手次第にさせる訳にはいかないのだ。少なくても貴女は人生何がしかを生きて来て今日がある。
親の恩から始まって数え切れない幾多の恩に支えられて私達は生きているのだ。その事を知りそれらに本当に心から感謝をし、心からお詫びが出来るようになって初めて生きて来た貴女の人生と言えるのだ。貴女の命や貴女の肉体は、恨む理由も原因も何にも無い。しかしそれを支える為に命も体も限界まで酷使してボロボロになってしまったと皆思っているようだが、実際は我がまま、我見のため素直さを失い、心が濁れ疲れ果て朽ち果ててボロボロに成って行ったのだ。
誰にも思い掛けない運命は有るものだ。君はそれに負けつつある負け犬だ・・・・」
混乱している私は、それ以上聞き取ることは出来ませんでした。
そのあとも色々言われました。「死ぬのは何時でも出来る、総ての始末を付けて爽やかな勝利の死をもって終りとなすべきだ、そめ為に是非坐禅をしなさい。」と言われたのです。
坐禅を頻りに勧めて下さる弟さんは、悪人とは決して思われないが、この時点では信じ切っていない自分が見えるのでした。
凡そ二時間、久しぶりに胸の内を竜山先生に聞いて頂いた安らぎと、打ちひしがれて立てない私の背中に油を注ぎ、火をかけ、無理矢理に歩かせようとする弟さんの冷酷な追いたてで終ったようでした。帰られてから暫くは放心状態で、次第に惨めさを増していく自分をどうしようもありませんでした。心の力を失ってしまうと、空虚感にやたら苦しむばかりでした。
又、心の一方にはすがれる師の有ったことを本当に感謝していたのです。
六つの目
十日も過ぎた頃でしょうか、幾らか落着いたので勝運寺の竜山先生を尋ねました。お礼とお詫びを申し上げる為でした。そこには又々あの弟さんがいらしたのです。硬くなるなと言う方が無理です。例のごとく竜山先生は黙ってじっと私を見つめておられるだけ。
代りに弟さんの矢のように浴びせかけて来る問い。(とうしよう?)
「歩くとは?」
「座るとは?」
「食べるとは?」
「息をするとは?」
「眠るとは?」
「見るとは?」
「聞くとは?」
「今とは?」
「今貴女は何をしているのか?」
「今座っている者は何か?」と言って私をみつめ、私を指差す。
黙って居られる竜山先生も、私の返答を待っている同じ目でしたのでとても助けては下さらないとあきらめました。
しかしそのまま押されて後ずさりの敗退を続けると、又々自分の抵抗力を失いそうで、ひたすら立ち向かうしかありませんでした。私は自分の持っている言葉の総てを出し尽くして答えるのです。私の言葉数など知れたもので、たちまち無くなってしまいました。私のどんな言葉を使っても、弟さんの「違う!」の一言で終ってしまうのです。
私はとっくに万策尽きて仕方なく四つの目を無視しようと一点に目をやって黙りました。
暫く何の言葉も無く、六つの目はジッと動きませんでした。重苦しさを支えるとても大きな力の要る沈黙・・・・
(仏教の世界はやねこいのね。歩くこと、息をすること、食べること、眠ること、こんな自然なことに定義付けが必要なのか。じゃ、聞かせて貰おうじゃない。仏教界の歩くこと、食べること、息をすること、その他色々質問された言葉の定義を。このまま黙っていたら和尚様の方から定義づけの講義がある筈だ。)
大層な定義
一点を凝視する目の裏側には、せっぱ詰まった後の開き直りが有り、それが私を強くしました。やがて和尚様の声が聞こえる。視線の外事で、心は振動しませんでした。
「頭の中はからっぽですか?」
それでも私は一点を見つめたまま。その時である。いきなり頬を[ピシャ!]痛くなかった。それどころか、「ぶたれた」という意識すら無かったのです。しかし頬の実感は鮮明にありました。無雑作に積まれている沢山の本と、笑いを我慢して私を見ておられる竜山先生とが景色の中にあった。不思議にも抵抗心が無くなっているのです。そのことが直接私の心を安らかにしていました。(あきらめとはこの事か。)
暫くの後、突然、
「立ちなさい。」何の抵抗もなく素直に指示の通り立った。
「歩きなさい。」その通りにした。二、三歩歩いた時である。[ハッ]とした私を見て、
「分かりましたか?」
「はい。」
「座りなさい。」
再びさっきの質問をされる。もう「違う」の言葉は返って来なかった。そして新たな質問。「この茶腕を全身で見なさい。見るばかり、この茶腕だけになりなさい。」
一点を茶腕に移し心一杯に集中した。
「ただ見る。茶腕という言葉の入る余地無く満身目。満身茶碗。外に何にも無い。」
瞬間であったが言葉を忘れていた。
「我を忘れてその事だけ、今だけに成って行く、我を忘れ切った世界が無我なのだ。」
何となくうなずける事でした。そして、
「これは何だ?」
と言って茶碗を私の目の前に置かれた。私はそれをソッと取上げてすぐに元の処へ置いた。単純にそうではないかと思ったからで、分かったものが有ってしたのではなかったが、和尚様は、
「言葉以前の事実なのだそれは。とにかく我々の全般あらゆるものには本来観念など理屈のないすっきりした世界なのだ。この一事実からして分かるだろう。理屈の無い事実ばかりが真実なのだ。これが総ての中心である。
理屈が無かったら、見たり聞いたり、立ったり歩いたりのまま、有無相対に拘らず一に収る。この普遍を法と言う。だから、只一息、只見、只聞、只歩けばよい。それが真理の具現だ。今、今、瞬間、瞬間、理屈のない事実だけの無我の実証をして行くだけだ。
これが禅の修行である。体得した時、仏法が現前しネハンの境界となる。」
と言われたのです。何ともご大層な定義付けである。驚いてしまった。
(これが禅の世界、仏教の世界なのか。最も近くにあって最も遠い世界ではないか・・・・もし体得出来たら凄い人生だ!)
竜山先生の人間臭さが遠くにぼんやり見えて来る気がする。和尚様だから怒らない、和尚様だから人一倍人間臭い。人間臭さとは人間本来の在り方の様な気がしてきたのです。
しかし[只歩く、只眠る]どれを取っても実行し続けるのは実に難しい事だと思った。私のように外界の事に即発的に感じて直ぐさま勝手に思ってしまう者にとっては、やれる自信は絶望的でした。
竜山先生が席を立たれ、暫くしてにぎり寿司と吸い物を持って入って来られました。弟さんは、「方丈自らとは勿体無い。」といって軽く合掌され恐縮されていました。(兄弟の中に保たれているけじめ、厳しいな。又[方丈]という言葉を使いなさいと教えているのだろうか?)
仏教の育ちでない私は、この言葉が実に馴染めないのです。なぜか高い所におられ、私など口も聞けない存在のように思えてならない。和尚様と身近にありたいという願望だろうか。注意されるまで[先生]という言葉を使い続けることにしました。
道場へ
「理屈の無い事実だけの一点が分かったら、後はそれを熟させるだけ。もう貴女は坐禅をするしかない。貴女はそれが出来る。」と言われ、その日、裏の道場へ案内されました。それはトタン屋根の御粗末な古風な感じの建物でした。が、直接何かを感じさせるものがあった。
先ず仏間へ、そして玄関に一番近い板の間へ通された。そこは新しい食堂のようでもあった。集会所かも知れない。その次は禅堂であった。ざっと座り方の説明をされ続いて静かに歩く[キンヒン]を教えて下さっている時、事もあろうに「どうしてそんなにゆっくり歩かなければいけないのですか?」と言ってしまった。
和尚様はあきれた顔で、「まあ、そのうち分かります。一息だけを一心不乱にするんですよ。」そう言われ、私を禅堂に残して帰られた。初めての坐禅、初めての禅堂。[ただ一息]なんて・・・・今はとても出来っこない。頭の中は妻として十分ではなかった事が次から次ぎへと出て来る。離婚しようとしている時、こんな思いになるのでは坐禅は却てマイナスになる、など考えていた。
思った程苦痛なものではなかった。確かに頭はさえていき研ぎすまされていくだろう。しかし自分にとって坐禅が絶対だと思える琴線に触れることはなかった。
とにかく山の中、得体の知れない目的を持ったガランとしたお堂の中で、神秘というより寂しさや空虚感が時々ともない(一人だけではやばいぞ)と思ったりして、一息もままならぬ二時間が過ぎ去って初めての坐禅は終わった。
海蔵寺
何の得るところもなく静けさに見送られて道場を出る。竜山先生に御挨拶をしに行った。心の底まで見透かされているような目が怖かった。今まで竜山先生を怖いと思ったことはなかったが、この日以来怖い存在になって行った。それからも何度か先生にお会いした。何時も心の底まで見透かされているように思えた。
その年はそれ以外坐禅をすることもなく、勝運寺にも少林窟道場にも足を運ばなかったのです。
次の年も考える所があって、他人の手を一切借らないで、苦しみは自分の心の問題として解決しようと思い、勝運寺にも少林窟道場にも足を運ばなかった。
その十月、偶然竜山先生にお会いした。
「成るようにしか成らないのだから、とにかく自分をしっかり見て生活しなさい。」そう言われた。
「少し明るさが戻りましたね。」そうとも言われた。しかしそれっきりお尋ねすることもしなかった。折に触れ、禅堂の張り紙の終りの部分が頭に浮かぶ。
『その真意を知らんと欲せば自ら座して味わうべし。』
一九八六年、昭和六十一年四月下旬の事、少し平静を取りもどしかけていたのに、又もうどうにもならない迄に心はボロボロになってしまった。主人が強引にアパートへおしかけて来て、金銭、女性の問題を繰り返す。夜七時、かすんだ目と震えそうな手で海蔵寺を捜した。受話器を耳に当てた時にはもう涙が溢れていた。
「竹原の玉桂ですが。」
「ああ、貴女ですか、どうして居ますか? 気にはしていたのですが・・・・」
「実は今、ボロボロになっています。先生のお声を聞けば少しは落着くと思いまして・・・・」
「そうですか、やっぱり。そんな事に成るだろうと思っていましたよ。今からすぐに来ませんか?」
予想外の言葉であった。嬉しさも予想外であったが、不安とともに恐さもあった。
「はい。ご迷惑とは思いますが今は心を取り戻したいので、七時半の電車に間に合えばそれで行かせて頂きます。」
とことん落込み、すがるワラに出会うことが出来た時、それは神仏にではなく初めて人様の暖かさを私は信じる事が出来たのです。そしてあらためて神仏に感謝したのです。
初めて海蔵寺を訪れることになり、駅前の派出所で所を聞く。タクシーより歩いて行くことを勧められた。近いということか。細い道に入った頃から少し不安になった。(このまま細まって行った先に果たしてお寺が有るのだろうか?)
殆どくら闇の中、心細さがますます不安を誘う。まん良く犬を散歩させている品の良い紳士に会い、道を尋ねた。その方は、「一緒に行きましょう。今夜座られるのですか?」など色々質問された。可なり海蔵寺の事に詳しそうであった。
ガレージの所まで来るとすぐ上に明かりのともった門が見えた。
その人は、「坂が急ですから気をつけなさい。」そう言われて私を見送って下さった。心から有難いと思った。又涙が落ちそうになった。
門の回りはとてもスッキリしていて小さな門がとても上品に見えた。余分な物のない清潔感が切れを感じさせ、煩悩にまみれた私には可なりまぶしく益々自分が小さく成って行った。
門を一歩入った。(何と檀家のしっかりしたお寺だろう!)それが第一印象であった。無縁仏搭に手を合わせ、初めての私を優しく受入れて下さった事に感謝した。
(ここの無縁仏さんは大変幸せだよ・・・・)奥へ進む。
スッキリ手入れされている庭、大きなお寺ではないのに、大胆に取ってある何も無い空間がゆとりを生み、世俗性を微塵も感じさせていなかった。
外から奥まで見える解放感満点の玄関は、新しいからたけではなく、住む人の心の明るさ大きさと自信を感じさせ、寧ろそれが威圧にさえ響く。
「いらっしゃいませ。」と言って私を迎えて下さったのはお嬢様だった。素朴で品の良い衝立をさり気なく避けて、少しななめよりにピッタりと座られ、額が畳につかんばかりの完壁な挨拶。
「どうぞお上がり下さい。」彼女は一体幾つだろうか・・・・
一年数か月ぶりにお目にかかる和尚様。もうハンカチを顔に当てていました。目の前の方が[井上希道氏]であることに未だ気がつかない私である。
[別れなさい。]この言葉を期待していたのですが全く逆なのです。
「先生! この前は別れることを勧めて居られましたね。」
「そうです。あの時は生きるか死ぬかの事でした。あれから二年近く一緒に生活して来ているのですから、これからもやっていけるという事ですよ。」
竜山先生と一緒にアパートへ来て頂いた時は、自分の供養(お葬式)をして頂きたいこと、神戸の海や町の見える小高いところのお寺に葬って頂きたい事等それら色々考えぬいた事をお願いしたりしていたから・・・・。いぶかしそうな顔をしている私に、
「私は貴女の考えの範囲にはいませんよ。」と言われて余計分からなくなってしまった。離婚の決意をするためも有って来たのに・・・・そして例に依って、
「とにかく坐禅をしなさい。そして深く大きな心の目で自分の人生を選択しなさい。心を開くお手伝いが私の使命で、人生の選択権は本人にしかないのですよ。そういう決断力不足が己の確立をさまたげているのですから、どうしても坐禅する必要が有るのです。」
この前はすぐに別れるように言われ、その為に荷物も一時預ってやるとまで言って下さったあの心を求めていたのかも知れない。自分の甘さが何とも言えなかった。
人気のない夜の列車の切ない響きが今の自分のわびしさを更にそそる。
でも海蔵寺へ行って良かった。何かが見える。
(一体私は何のために生まれて来たのだろうか?)
(苦しむため?)
(苦しみを解決するため?)
再び少林窟道場へ
どう決心したのか、それから再び少林窟道場へ足を運ぶようになった。禅堂に座っていると無性に眠い。いつも徹夜のあとに来る。(変な自分!)
屋根を小枝が撫でる音。小鳥達の心地良い鳴き声。程良い静けさ。環境としては申し分は無いけれども頭の中を騒ぐのは、少林窟の古い昔のお蒲団や枕カバー、敷布など。
「参禅される方の奥さんも来られて泊られますか?」と自然に口から出ていた。
「いや。」とアッサリ。
「そうでしょうね。これを知ったら絶対手入れしに来られますもの。大事な檀那様をこんなお蒲団によう寝かされませんから。」とうっかり本音を言ってしまった。
「何が不服なのだ! 修行者はこれでも有難いのだぞ! 釈尊は樹下石上だったのだ。ぜいたくをいうな! そんな事が気にかかっていたら坐禅にならんだろうが、ばっかもん!」
何ちゅう無神経な事を! とにかく私は堪えられない! 自分で騒ぎの原因を取り除こう。
五月下旬から禅堂に入る暇も無く枕を触っていた。六月、海蔵寺の先生と奥様の頼まれた着物を縫う。その為に泊り込みであった。私はそこでの幾夜を、一睡も取ることが出来なかった。風が吹けば屋根は小枝で不安を運び、突然トタン屋根を叩く山からの飛来物で心臓は凍りつき、鼻息を荒たてて窓の下を伺うけものに息を殺して小さく潜み、縁の下で鳴く狐の子か犬の子か、人気の全くないガランとした道場の真ん中の部屋で縫い物に没頭し夜明けを待った夜だったから。
そして梅雨明けを待ってお蒲団にかかる。
そんな六月の終りのある日、掃除機をかけていたらやたらと[井上希道]という文字が目に入る。
「あれ!」一人で笑ってしまう。二年以上前、一度会ってみたいと思った時は、もう会っていた後だった事にようやく気付く。自分の第六感はまあまあだと思った。六十才は外れたが、閑静な住いは当たっていたし、おおらかな自由人はそれなりに当たっていた。幾ら建物台帳を見ても無い筈である、お寺だから。
七月の中旬のこと、「何時の間にか泣かなくなりましたね。」と先生に言われ、そういえば声をかけられれば涙ポタポタであった。そんな私から先生は逃げ腰の様に思われた。七月頃から私が変ったことは確かである。時々行く職場で重苦しさが無くなっていた。心が軽ければ他人の心の優しさが見えて来る。この課は皆な良い人ばかりだと改めて感じたのがこの頃であった。
問題が一つ発生した。希道先生に対して時々なれなれしい言葉を使い始めた。先生は一度も注意されないがこんな話をされた。
「私はいくつだと思いますか?」と私に聞かれた。
「竜山先生が、弟とはハヶ月違いだとおっしゃっておられたから、五十三か四でしょう。」
「それはないぞ。」
「竜山先生が嘘つかれる筈がない。和尚様が嘘をつくなんて有り得ません。でも頭髪が無いと、随分お年より若く見えますね。」
「そうなんですよ。だから道の無い人ほど、自分より年下だと思うとぞんざいな言葉遣いをする人が居ますが、私は相手の年を知っていますからね。」
[ドキッ!]心臓が止りそう。
私は気のすむように少林窟の屋内掃除をしてきたため、この事に関しては一切頼られているのが伺えるから、ついつい優越感に似たものが頭を出すのであろうか、冗談が多くなる。この問題は八月の終りには解決した。
坐禅を前にして[ゴータマ、ブッダ]を読んだ。その中に、[師に対しては友達でありなさい。しかし、信じ切ったものでなければ駄目だ。そして師は自分の総てを与えようとする・・・・]
と言うような事が書いてあった。私はこの言葉にひどく叱責され、且つ恥じた。
やるしかない
七月の終わり、「先生! 私に坐禅をさせて下さる気があるのですか!」と開き直って質問した。
「先生は何時も忙しいと言われているから遠慮していると、次から次に私の前を坐禅される人が通り過ぎて行かれるじゃないですか!」
「私は法を最優先しているんだ。貴女は何故自ら、[坐禅をさせて下さい!]と言わないのだ! それより君は何時も何処か私を疑っている部分がある。自分の内に信じ切る力が無い人間は駄目なんだ。坐禅をする時には信じ切っていないと、自分が悲しい思いをするだけですよ。
以前或る女性が参禅に来た。彼女は私を信じ切れなかったのだろう遂に得るところなく悲しい顔をして帰って行った。私も悲しかった。
君には彼女の二の舞はさせたくない。貴女の様子は何もかもちゃんと見ているんだよ! 何故本気でやろうとしないのだ!」
言葉が無かった。逃げ腰だなんてとんでもない事だった。私が本腰で無かったから・・・・
心臓の中から煮えた辛い涙が出た。(何んて禅の師はすさまじいのだろう!)先生のお顔が寂しそうなのに、とても怖くとても遠くに見えた。
八月の始めになってようやく坐禅の日程を決めた。お彼岸が終って九月二十九日から二週間。「八月にしたい。」と言ったら、「八月にここの禅堂に朝から晩まで入っているとイリコになりますよ、今の貴女の体力では続きません、無理ですよ。」
痩せたい私にはイリコになれるとは一石二鳥だと思ったが、風呂好きな私には、連日のこの熱さの中、四日間も入れないと気が狂ってしまう。毎日夏は三度は入っているのに・・・・やはり止めておこう。
先輩の[参禅記]の中では風呂は四日目が多かった。私もきっと四日間は入れて貰えないだろう。この風呂の問題が有るくらいで外に私の限界を越えたものは無く、この調子なら充分座れると思ったのだが。
入山を控えて、少林窟道場に入る坐禅の目的は、[自分がどれだけの者なのかしっかり見つめること、もし自分を知る力さえ持ち合せぬ人間ならば、もうあれこれ悩まないで只流れに身を任せ、無気力に生きて行けばそれで良い。]そう言い聞かせる。
先生に電話をかけた。最終的な日時の確認である。九月二十九日であった筈なのに二十六日からだと言われた。こうなったら早いのが先生である。
「それはそうとお彼岸が近づきましたね、お墓参りはしなさいよ。」
「実家のお墓参りはしますけど、〇〇にはしませんよ。」
「心の狭いことを言うな。現実に因縁を持っている以上、ご先祖や三界の仏に供養し、感謝の心を持たなくてはね。坐禅をする人は特に。道を踏まなければ道の人には成れませんよ。」
「実家のご先祖様には感謝していますけど、○○のご先祖様には私に期待をかけて欲しくありませんから。私は何もして上げられませんので・・・・
離婚したいのは主人だけが原因ではありません。主婦として妻として、私は自由に色々なことをしていますが、この主人だから出来ることで、離婚々々と言いながらずるずると生活しているでしょう。二週間座ったぐらいで心のこの問題が解決出来るくらいなら、この世にお釈迦様はいっぱいですね。」
「こら! 釈尊をこんな所へ持出すな、釈尊が迷惑だ! 勿論目的はそれでなけねばならん、悟るという事だ。自分の心を自分で根底より解決つけるのだ。その為に本当の坐禅が出来るようにならなければ。分かるか!
第一歩がそれだ。正しく坐禅をすれば誰でもがその入り口へ、山門へ辿り着ける。しかし例え山門にまで来て戸を叩いても、中に一歩も入れない人も居るのだから。
君はどちらかね?・・・・無理かな?・・・・・はははっ!」
(くそ! 馬鹿にされた! 女の怖さを見せてやるかな・・・・)
「先生! 子供を持つ女は強いですよ。子供を持たない女は怖いですよ。子供を持たない女はプライドを傷つけられたら、後は守るべき物は何も無い。分かりますか!」
「子供を持った女が強くなるのは一時的なもの、子供は必ず巣立って行く、その時子離れをうまくしていないと悲劇を作る。そういう点では子供のいない君は問題はないのだから何時でも家庭は捨てられる筈、大いに座りなさい。
先ずは山門を目指して! どうしますか? やるのかやらんのか!」
「はい! (ヤルッキャナイ!)座ります! よろしくお願いします!」
「よく決心したな! 死に損ないの命預った! 死んだ気で来なさい、安心して!」
[死に損ない! そっか、やっぱり!)
冷えている心の片隅にムラッ! と何かが光った。
自ら坐して味わうべし
その日から当日まで睡眠時間を充分取ることなく縫い物にかかった。二十六日やっとの事で縫い届けた。
その方は私が竹原に来て、家と駅前のスーパーの往復のみの生活をしていた頃からの知合いである。化粧品のセールスをされていて、私がたまたまその化粧品を使っていたことで、顧客の名簿に名を列ねる事になっただけ。家にいる時は全く化粧をしないので購入額は知れたものであるが、セールスウーマンと客とを越えた人生の先輩として色々導いて下さった方である。
「実はね、今日から坐禅に行くよ。」
「何処へ? 勝運寺?」
「うん・・・・勝運寺の裏へね。」すぐ帰るつもりがあれこれ話をして一時間くらい居ただろう。
「この事、実家は知っているけど、主人には旅行に行くと行って出るから。近すぎるから主人の事だから何でもない用事で来たりして、邪魔だけはされたくないからね。
もし主人が死んだら海蔵寺に電話してね。竜山先生の弟さんだから。それ以外、大怪我とか大病でない限り電話しなくてもいいからね。」と笑いながら話をしていたが涙が頬を伝っていた。
「徳森さんと会わなかったら、私は井上先生を知らなかったし坐禅をすることもなかったと思う。貴女に会えて本当に良かった。」こう言うと、
「そうよ、これも因縁よ。ね。」五十を過ぎただろう彼女は、私の決心を涙で理解してくれた。
「じゃ、行って来るからね。」声だけは元気であった。
その脚で職場へ、職場と言っても非常勤である。ちょっと行事が立て込んでいる。無断欠席は良くない。一応挨拶だけは。坐禅など言葉にするつもりは無かった。目指す上司が外出から帰って来られた。上司にお会いしたら総てを話して行きたくなった。
「坐禅をしに行って来ます。今日から。理由は何となくご存じでしょう。自分をしっかり観つめて来ます。二週間後、明るい顔をして来られたらいいんですけれど・・・・」
ここでも笑っているが涙が止らない。
「玉桂さんは何時も明るかった。それがいいところだけど・・・・」
「いや、とても辛かったんですよ。精一杯明るく振る舞っていましたが・・・・でも七月頃から少し変ったと思いますが、少し落着いたから。」
「何処へ? 参考までに教えてくれないか?」
「う・・ん、近くです。」
「仏通寺?」
「そんな遠くではありません・・・・忠海」
「勝運寺?」
「はい。」
「そう言えば勝運寺の裏に禅堂が有ったね。」
「管理は海蔵寺さんがしておられます。勝運寺の井上先生の弟さんでして、どうなっているのか良く分からないのですが・・・・」じっと私を見つめておられるが、かすんで良く見えない。
「じゃ、行って来ます。」
(くずれた顔の涙なんて戴けないな)もろに泣き笑いの心境でアパートに帰る。
ササッと掃除を済ませた。気掛かりだが奇麗好きの主人の事、汚くなれば掃除機ぐらいはかけるだろう。荷物を作り、服を着替え、置き手紙を書く。
「貴方にとって私は必要無いようですね。当分の間帰って来ません。今度帰って来た時は快く離婚して下さい。自分をじっくり観つめようと思います。あちこちへ電話をかけないで下さい。お金は何時もの所に有ります。ガス代は未だです。」
申し訳ないと思う心の暇は無かった、不思議に。
ただ、一直線にやるしかない。今を逃したら坐禅をする機会などもう来ないような気がしていた。
禅堂の張り紙が思い出される。
『坐禅を坐禅と知る人稀なりと古人は云えり。此の標本が即ち達磨大師である。九年間坐禅をして何も説かなかった、否説くことが無い。釈尊は四十九年間説法の暁一字不説と一筆勾下された。実は何も説けないのじゃ。
只坐禅をすればよい。之を以って示されたのが達磨大師その人である。坐禅と云はそれほど尊いものである。それ何が故ぞ。真理の表現なればなり。この真意を知らんと欲っせば自ら坐して味わうべし』
家を空けるに当たり、幾許の不安も心配も無く、『真意を知らんと欲っせば自ら坐して味わうべし』こう口ずさんで、涙でよく見えないドアに鍵を掛けた。(もしかしてサヨウナラかも?)
禅堂に入ったら何をする
一時間後には少林窟道場の玄関にいた。二、三日前から妙に感傷的になっている。二年前に戻り、竜山先生の部屋から再度出発したかったが先生はお留守だった。これといった不安は無かったけれども、強いて取り立てるなら、(もし山門にも辿り着けないような自分だったら、それは自分を観る力さえ持ち合せぬ人間だから、それを知った時の挫折感をどうするの? その時狼狽なよ。)この程度である。
私と同時に嵩さんが来られた。澄み切った目、静かな深い動き、丁寧な御挨拶、私は到底受けきれず恥ずかしかった。私のプライドの何と無力な事、わびしかった。嵩さんはすぐに外の掃除を始められ、私は即席の大根の漬けものと昆布の佃煮を作る。
七時頃、先生は何時になく怖い顔で話を始められる。嵩さんも私同様全く初心者になって聞いておられた。道場でのマンツウマン、予測のつかない不安のため緊張も極限となる。
「禅堂に入ったら、先ずどうしますか?」
「達磨大師に礼をします。」
「その次は?」
「座ります。」
「その次は?」
「息を整えます。」
「息を整えるとは?」
「一息に成り切ることです。」
「一息とは。」
「吐く時は吐くだけ、吸う時は吸うだけ」
「吐くだけ、吸うだけとは?」
違ったら怒られる、こわごわ指示されたことをする。カミナリもビンタもなかった。先輩の[参禅記]を読んでおいて良かった。確かに無駄では無かった。
「そこが良く分かったな。知の届く所はそこまでだ。それしかない事実だけのギリギリの所だ。事実でない事があるか? 常にいっぱいいっぱいで、どうすることも出来ないのだよ。だからその事に成り切るより道はないのだ。成り切るとは[その事も忘れ、自分も忘れて只在る]のみ。
本当に成り切った世界を[無我]と言い、[三昧]と言い、[無相]と言い、[道]と言い、[脱落]と言い、そのハッキリした大自覚を[悟り]と言う。
つまりその物に因って心の執着の元、我見も又空であることを自覚させられるのだ。空なる我見は前後際断の上だから自もなく他もない。
相対が破れ絶対無限、自他一如となる。だから我見ではなくなるのだ。脱落とはこれだ。
とにかく脱落の消息がなければ見聞覚知するところ悉く不明瞭故に迷いの自己であり、苦しみの種となって六道を輪廻する事になる。
これは大仕事だ。全人類的大救済の道じゃ。
これなくして世界平和は在り得ないのだ。
道に在っては男も女もないぞ! 手加減はせんぞ! やれよ、やれよ!
ただその事に徹すれば良い! たった一息に成り切って我を忘れ切れば良いのだ!
本当に成り切って忘れ切ったら起こる大自覚が在るのだ。
これが仏法の本質であり命脈である。禅の本領である。
これを問題にしない禅は[仏法の禅ではない]のだ。
分かったか! 只一息を命懸けでやりなさい!」
話は終り嵩さんは帰られた。
体中がほてり、切れの良い静けさがみなぎっていた。(少し感情が収ったのか?)
「取り敢えず仏間に行って一息を命懸けでやりなさい。」何かがホッとした。
体がフワッと浮いて自分でない自分が歩いて行った。
寝坐禅
この日は夕食が終わると休むよう言われた。一週間まともに眠っていない事と、明日と明後日はとても気分が悪く、食事も取れにくくなる事もあるので、それも病気でないことを奥様に電話しておいた。そのせいか先生は随分私の体調を気づかって下さる。
九時過ぎ床に就いたが何故か頭がさえて眠れない。列車の音、車の音、屋根に栗が落ちる音、これらは以前の様なこともなく、さほど気持ちを動かさないが、夜中に飛ぶ鷺の声だけは恐怖心を駆り立てる。一人ここで夜眠ることは、今の私にはとても出来ない大変な事。
この夜は何故か、社会教育課の人達のことばかりが次から次へと思い出される。(私は良い人ばかりに囲まれているな・・・・)
五時半に山鳩の第一声、「ハヤクー、オキロー、ハヤクー、オキロー」と聞こえて来る。私はアマノジャク、それから安心して一時間半程ぐっすり寝てしまった。
先生は海蔵寺でのお仕事が沢山有って、昼も夜も明日の朝も昼も一人で食事をする事と、疲れを取るために[寝坐禅]をするように教えて下さった。
「立っていても座っていても寝ていても、今一息は一息だ。この中心を絶対に離してはならぬ。無我とは純粋そのものの世界だ。だから純粋な本当の一息に徹すれば良い。一息だけを、ただやれば良い。この中心を離すと禅にはならないぞ。即本質から外れて迷いの世界となり、煩脳の虜になって災を招くのだ。とにかく体を横にして、ただ一息、良いですね!」
そう言われて少林窟を出られる時、
「今度会う時までとにかく生きていなさい。」
「大丈夫です。これだけ肥えているのですから、一週間位,食事をしなくても死にませんから。」と笑ってはいるものの急に心細くなっていく。
(こんな事で・・・・しっかりしろ!)と激励するが私のオマジナイなど利く訳がない。
[寝坐禅]と言われても、何故かサボッているような気がして仏間で坐禅をする。[ただ一息のみ]を一生懸命試みるがなかなか集中出来ない。
自分はやっぱり出来が悪いのかもしれないが、昨年の夏、三原から竹原までのナイトウォーキングに参加した時の事、二十八キロのとてつもない道程を歩くのに百までの歩数を単純に繰り返し歩いていた。自分は今迄幾ら歩いて来たとか、今何処らあたりとか、この先どの位あるとか、そんな事をすっかり忘れてひたすら歩いていた。
ふと気がつくと、さっき何をしていたのか分からない。一心に只歩いていただけだった。その時言い知れない安らぎと言うか、とても気持ちが良かった。歩いているのだから眠っている筈もないし、意識もはっきりとしていた。むしろ意識は澄んでいたし、星空がやたら美しく見えた。
(仏教の言う無の世界とは、もしかしてこれらかな?)と思ったりした。
坐禅とはそういう気持ちに成れるものと考えている私は、自分の経験を生かしてみようと数を教えて 一息をしてみた。一応百まで、今度は二百まで、そんな調子で・・・・。坐禅は実によく疲れる。
その日は十時過ぎ床に入った。一人であることを考えないようにして・・・・。疲れ切って眠った。先生の話し声が聞こえる。どなたか他の人が居られるみたいだ。
(しまった! 何たる不覚! 山鳩は何故起こしてくれなかったのか? 小鳥達は何故今朝は鳴かないの? 今日は雨なのかなぁ・・・・)
慌てて布団から飛び起きる。部屋が暗い、電気をつける。カーテンを開ける。
何と! 外は真っ暗! 改めて時計を見る。午前二時。
(何だ!)自分の慌て振りが可笑しくて一人で笑ってしまった。そのまま眠れば良かったのだが、「お茶を飲みませんか」に誘われて飲んだのが悪かった。朝まで眠れない。
五時半、山鳩が、「ハヤクー、オキロー、ハヤクー、オキロー」
間もなく勝運寺のモクギョの音が聞こえる。今日は日曜日。昨夜のお客様は私を心配してわざわざ広島から永岡さん、そして小積さんが来られたとの事でした。
(私がここに一人で居る堪えがたい心を皆見抜いていらっしゃるのか!)チョッピリ自尊心がうずくけれど安心感を与えて下さった。有難いことです。
ばかもん!
その日から着物と袴を着た。背筋が伸びて[気]が体にみなぎって来る。先生の勧められた訳が格好を言われたのでは無いことが分かった。
すぐに禅堂に行く。かなり心は定まっているのに頻りに兄姉の思いに振り回される。末っ子のくせに態度のデカイ私を皆優しく可愛がってくれる温情は、今の私の心をゆさぶる。
(父よ! 母よ! 兄よ! 姉よ! この悲しい涙を必ず喜びの涙に替えて見せますから・・・・)
ひとしきり泣いた。(先生に見られたらブッ飛ばされそう。)そう思ったらシャキッ! とした。
様子が変って来た。数を数えないで一息をしてみる。非常に楽に息が出来る。一息しか無いのだからもう数える余分な事は止めた。しかし雑念は次から次へと止む事を知らない。
雑念の方がやめてくれないのならこっちから縁切り状を叩きつけてやる。
一息を本当に[只]すれば良いのだから。
一息はつづき雑念もつづく。でもそれ以上に努力はつづく。肩もこり、腕もこり、腰もこり、首もこり、何故か目もひどく疲れてギシギシだ。全身の疲れか気力が弱い。
夕方庭が騒がしい。いや、騒がしくはない。回りが余りに静かだから二、三人の足音を殺して歩く気配が全身に響く。もし以前の私だったらそんなにおおげさではない筈。雑念に翻弄され耳を失っているだろうから。今まで気付かなかった、全身で音を聞くなんて・・・・
先生であることは分かっていたのに、外から声を掛けられてドキリ! とした。
「玉桂さん、誰が庭の掃除をしましたか?」
「嵩さんです。」
「何時ですか?」
「私が少林窟に来た日です。」
何と! あの日は薄暗くなるまで掃除をされていたのに。当然先生のお部屋の真下もされた筈。それをご存じ無かったとは!
何をされていたかは知らないが、それ程夢中になっていらっしゃったのか!
それとも許可なしに私が勝手に暇つぶしのためにしたとでも思われたのだろうか?
オッソロシイ事を! 先生は、「私が指示するまで坐禅以外の事はしてはならぬ。」と言われ、完全坐禅を私にさせるために、とにかく食事の一切を先生自らがして下さるのですから。
暫くして禅堂に入って来られ、
「それは臨済宗の座り方だ。ここは面壁だから向きを変えなさい。」
「えっ! 後を向いたら壁だけで面白みがない、山も山鳩も見えないし・・・・」又々言ってしまった。私の言葉が終らぬ内に、
「馬鹿もんが!」同時に頭のてっぺんに遠慮の無いゲンコツが!
[ゴキッ!]頭蓋骨が陥没したかと思った。しかし手加減を本当にしないのか!
いずれにしても二年間ずっと臨済宗の座り方をしていたのか。きっと二年前の「どうしてそんなにゆっくり歩かなければいけないのですか?」これがたたったらしい。あの時先生は[何を言ってもいちいち理屈を言うから、何も言わずに一息だけをさそう]そう思われて作法の説明を止められたのだろう。
母を責めるのは辞めて!
暫くすると再び人気は無くなった。あたりは次第に薄暗くなる。禅堂の明かりを付けたくても分からない。暗闇に飲み込まれて自分の呼吸だけが響く。油断をすると怖さに脅かされるので拳を握り締めて一息に力を入れる。
やがて台所から音がして思わずホッとした。何時も乍ら先生の鮮やかな包丁の音。あれでは先生の前で包丁が使えないではないですか!
「カチ、カチ、カチ、・・・・」救いの音がして食堂に向う。足音一つで心を読む先生に近づいて行くことはこれ又大変なことで、ドアに手を伸ばすのも引くのも閉めるのも心を注ぐ。先生の姿が視界に入ると、もう絶対絶命!
「一箸から注意が抜けとる!」と叱られ、
「一噛みの事実に成り切るのだから、一噛みを離したら成り切る因禄を失って自我を破ることができないぞ!」とお説法。
何かを避けようとして只夢中で食べる。突然思わぬ事を言われた。
「お母さんはどうして君に正しい箸の使い方を教えなかったのだろうね。」
「私は現代っ子ですから箸は使えません。」とっさに出ていた。しかしどんなに意気がってみても先生にそんな風に言われるとやはり悲しい。
私が生れた時どん底の生活だったらしい。ヘソの尾をたすき掛けに生れ、もう消えて無いが背中には雄しべ雌しべまではっきり分かる梅の花のあざがあった。お産婆さんは「この子は神様の子だから大切に育てなさい」と言われたとか母は一緒にお風呂に入るたびにそんな話をしてくれた。
とんだ神様の子であるが、お産姿さんは貧しい家で五番目の女の子、行く末が哀れに思えてそう言われたのだろうが、私は末っ子として大変大事に育てられた。
小学校に上がる前三年間父が結核で入院した。私の面倒は兄・長女・次女が見ることが多かった。
父が退院しても子供に移すことを警戒して二年間は別居生活をしていた。父と生活を始めたのは小学校三年生からであった。生活に一生懸命だった母におぼつかない箸使いをする私をみるゆとりが有ったであろうか。それどころか子供たちと一緒に食事をしたことが何度有っただろうか。
まともに箸が使えないからといって母を責めないで欲しい!
お嬢様育ちの母が病気の主人を抱え、六人の子供の為に成り振り構わず髪を振り乱し、親戚から非難されながらも頑張ったのだから。
教師だった母は勉強だけは最優先に見てくれていた。高校に入った時は何不自由のない生活をしていた。既に老いて来た父や母、一番早く別れることになるこんな私に自然しつけは甘かった。自分でたくましく生きて行けるようにだけはしっかり育てられた。しかし末っ子、甘えるのは人の十倍であるが母は言う「かよ子は逆境に強い子だ・・・・」自分でそう信じたい。
思い出枕
その日、こわごわ「お母呂に入りたい。」と言ってみた。
「良いですよ。」と言って頂いて嬉しかった。三日目であった。少し後目たさがあってそそくさと出てしまった。とにかく体が痛い、明日は着物をゆったり着てみよう。
十時過ぎ床に入る。頻りに母の事が頭をよぎる。私を一番理解してくれている母。八月の終り、坐禅に行くことを告げに行った。
「親が死んでも禅堂から出ないからね。」と言うと、
「そうよ、同じするのならね、大いに座りなさい。お前は何処へ投出しても一人でちゃんと生活して行ける子だ。いじけた性格になったりせず心情的に伸び伸び生活した方が似合う子だ。」
母は気丈にもそう言って私の決心を高めてくれた。高校二年の時、冗談百パーセントで、
「アメリカへ留学しようかな・・・・」と言ったら、母はそれまで見たこともない怖いほど真面目な顔をして、
「お前は私たち夫婦にとっては大事な子供、しかし家にとっては居ても居なくてもいい子だ、家の事は考えないで自分のしたいことをどんどんしなさい、自分で大地にしっかり根をはる為に。その為ならお母さんどんな事をしてもお金は作ってやるから! いいね! 本気でやりなさい!」
あの時の迫力は今思っても怖い。それ以来この手の冗談は言わないことにした。今我が母はどんなであろうか。老いたる母の顔が浮かんだ。何時までも元気で居て欲しい。
(おかあちゃん!・・・・)
恐怖の変貌
山鳩の目覚まし時計に起こされる。五分と違わない正確さだ。昨日までの自分の修行は坐禅とは程遠いような感じがしていた。先生の過保護が気になる。今日から何時ものように厳しくして頂くようお願いしようと思った矢先、
「何時までぐずぐずしているのか! さっさと禅堂へ行きなさい!」
今まで聞いた事の無い大声であった。
「すみません。」多分先生には、私の声は聞き取れなかったと思う。あまりの変化に心は震えていた。自分で望んでいた筈なのに過ぎる程の優しさから、身も凍るかと思われる怖い先生に急変されると、小心者の私は一瞬驚きそのまま恐怖へと変貌する。涙も震えていた。(これで良いのだ!)必死で励まして、禅堂まで[今のみ、一歩のみ]と基本を遂行するが涙は止らない。(怒られたのは過去の事)そう言い聞かせながら一生懸命歩く。(この厳しさが無くては自分には坐禅は到底出来ないのだ!)自分を励まし、ドアの前で何度も何度も大きく息をして禅堂に入る。悲しさがどっと襲ってくる。畳も窓も何も見えなくなり、泣くまいと頑張る顎から滴り落ちる涙はせつない。
夕食後、又々大声で、しかも食卓をおもいきり叩いて、
「何をしとるか! さっさと禅堂へ行け! 怒られなかったら本真剣に成れんのか!」
顔一杯の目! 顔一杯の口! 堪える暇もなく又涙が出る。しかし禅堂へ入った時はケロッとしていた。先生は如何に優しそうに見えても、私に炎のような熱烈さを求めて居られたのだ!
(あんなに机を叩いて・・・・痛かっただろうに・・・・それも私のために・・・・)
この日はとうとう訳の分からない雑念に振り回されてしまった。辛かった。
十一時過ぎ部屋に戻る。又先生の所にはお客様だ。その夜は良く眠ったらしい。お客様が何時帰られたのか分からなかった。
新しい涙
五日目の朝、何となく爽やかである。心が軽いだけではなくこの体が丸ごと軽やかである。あちこち凝ってとても痛いので快調という訳ではない筈。雑念に振り回されているが、ほんの少しだけ雑念を切り捨てている時間が持てるようになってきた。
[雑念の無い心の自分]を考えてみたことが有ったが、想像したものとは大いに違っていた。[雑念が無かったら心と言うべきものが無い]こんな事が分かるように成って来た。先生にお聞きした訳の分からない事柄が何と無く分かるのか、断片的に理解されて現われてくる。心と思っていた心は雑念のように出た跡かたの事で、元の心はそんな姿や形のあるものではなかった。だから自分で思っていた心は無くても目に映ればはっきり[それだ]と分かる。
この事は体験でしか知ることは出来ないと思った。自分が今、どっちを向いているのか分からなくなっているのだが、心は随分安らかである。
睡魔の撃退法を考えながら、自分が坐禅を面白く感じ出していたのに気がついた。先生が何が何でも坐禅をさせようとされた事の意味の大きさが少し分かり始めた。そんなこんな雑念が睡魔と入れ替わりに出て来る。睡魔と戦うことも楽ではない。
先生は、「どんなに努力してもすぐに眠気が来る時は疲れだからすぐに床に入って五分でも十分でも本当に寝なさい。」と言って下さるが努力の後の事をおっしゃっているので、その努力を色々してみる。
先ずキンヒン(禅堂の中をゆっくり歩くこと)、それでも駄目なら正座のまま後に仰向きに倒れ、腕を耳にくっつけ伸ばす、そのまま五十ほど数を数える、頭のてっぺんから足の先まで痛くて五十まで数えるには相当の忍耐が要る。そうして座りなおした時は頭がすっきりしている。それをしながらの坐禅であるから座布(ざふ)を畳の中央に持って行った。叱られないと確信して。
それでもなお駄目となったら潔くお浦団で眠る。
「坐禅をされる人が来られるが、ここへ来る人は皆きっちりやれる人ばかりだから、人に気を兼ねて心を動かしてはならない。今は君の坐禅が第一だからどんな方法でも良いから今を失うことなくスッキリとして座りなさい。」と最初の日に言われていたから。
不思議にも何時間も寝入る事は無かった。心身の統一という事は素晴らしい活性作用を持っているようだ。
先ず感情の安定と言うか統一と言うか、それによって心は波静かになる。平素の心が如何に無駄事を考えて感情を動揺させているかが良く分かる。いや、ここでは目的意識が最大に燃焼させられていくのでその暇が無いと言ってもいい。
一つ事に一生懸命に成れば成る程、これも不思議な事に身も心も軽くなって行く。だから自然意志も決断も殊更の緊張感も減少して行く。頭で(どうしてもやられば!)と初めはそう思って頑張る。次第にその事が身に付き、朝から晩まで[今][一息]の自己鍛練を寸暇無くやればそのパターンは回路になってしまう筈。
静かな心で疲れ切った体はストレートに眠り、精神疲労が取れれば目は覚める。何もしていないのだから肉体の疲れは知れたもの。覚めて当然だ。すぐに[今][隙無く]に総てが掛けられて行く。そして[禅堂]へ[一心に歩く]。そして[ただ吐く、ただ吸う]に全精魂を打ち込む。
決定的にこれだけだから心の統一が取れない訳が無い。
坐禅と言えば誰でも知っているあの特殊な座り方のあのスタイル。先生はそんな形だけを禅だなんて思ってもいない。だから自然その[本質的な目的]に力点がおかれ、時としてそれがすごみになって出て来るので私の心臓が止りそうになる。勿論坐禅はお祖師方を最大限尊重されている限りスタイルも学ぶという点で受け継がれ行われている筈。先生も[坐禅の形はこれだ]と言って教えて下さっておられる、けれども[力点は何処までも本質的な目的]である。
私が当初面食らったのはその事で、坐禅はとにかくあのスタイルでじっとただ座っている事だと思い込んでいた。[何を、どのようにするか]といったお祖師方が命懸けで取り組まれた本質的な目的を知らなかったから。
[何を]とは[雑念]でもいいし、[自己]でもいいし、[今]でもいい筈。そしてそれを[どのようにするか]がまさしく今の私の坐禅の目的であろう。先生は「坐禅は只坐禅だ」とおっしゃるけれども、その道理は良く分かっても[禅としての坐禅]になかなかなれない。スタイルの坐禅は体であり形のもの。私は自分の厄介な心を何とかしたくて坐禅にその解決を求めた。私にとっての坐禅は心の坐禅である。けれども方法を知らなかったので、そのスタイルを一生懸命していれば何とかなって行くと初めはそう考えていた。
ここまでようやく静まった心で、[坐禅は坐禅]をもう一度考えてみた。雑念で明け暮れている時、それはもうスタイルだけの坐禅でしかない。坐禅の形をして雑念に遊んでいるだけである。今自分がしている事に最も忠実である事は、[一心であり、真実一路であり、一体であり、なり切っている]事であろう。言うまでもなくそれは[雑念の無い一瞬]のことである筈。
やはり問題はこの厄介な雑念を何とかしない限り坐禅と私は一体にはなれない。[何をとは雑念]のことであり[どのようにとは一瞬一瞬雑念の出る余地の無い一息]になる努力。今の私から言えば。[本当の一息が出来るようになった時[坐禅は坐禅]になるのではないか。雑念の心が消えるとスタイルである体の坐禅に心の元が治ってしまう筈だから。体と心と不離一体を[禅]だと思っている私はこれで一応筋が通った気がして自分なりに納得した。
先生がこの[心の事を最優先最大限に指導]されているその重大さが、今ようやく私にも分かる。
「どんな格好をしていても一瞬の念の発生源を見届けよ、その為には今を離すな」と、とことん言われた事もみんな[重大な心の解決]の為だけであろう。
[坐禅とは心を解決する為にする。]お祖師方の伝えよるとして来られた坐禅もそれである筈だ。
形を重んじて問題の心を軽く扱ってしまったら何にもならない事になる。
心の解決を最重要視するために、可能な限り心の静けさを保たせる指導が下る。為に、心の不鮮明な間は可能な限り無駄な動きを切捨てられ、あらゆる形式は省かれる。
だからお蒲団も敷きっぱなしにしておくよう言われた。「私が良しと言うまで何もするな。」と言われた。とことん努力し切って疲れた時、潔くサッと眠り、パッと起きてサッと禅堂に行く。これほど効率的な事はない、考える迄もなくこれこそ最も効率の良い事には違いないと思うけれども、初めの頃にはいささかお蒲団の敷きっぱなしには抵抗があった。これが修行者として相応しいかどうか? と言う事であった。
先生がご自分の激しい修行体験を深く振返ってみられた時、[目的と効率]という事に着目されそこに涙を注がれている様な気がした。だから本質目的を最大限に重要視されたこんな独創的な修行方法を確立されたのだろうと思われる。
そのお陰で私の様な小心者で努力の鈍い、おまけにひねくれて理屈っぽく、冗談の多い人間でもかつて経験のない深い落ち着きを得られ、いい知れない大きな世界のある事を実感として体験させて戴く事が出来た。多分(多分はいらないと思うのだが)先生の元で素直に努力されたならば、皆幾ら出しても買えない心の世界を得る事が出来ると思った。
私はここに至りて指導者の極めて大切な事が分かり、全く質の違った涙を覚えた。おもむろの合掌はこの時の私の総てだった。
不思議な切れ
とにかく[今、雑念無しの一息]に達する為に頑張る。目はうつむいて半開と、どこかで読んだみたいだが、うつむく角度と開き加減が問題だ。視点が下過ぎ目を細くし過ぎると眠くなる。上過ぎ開き過ぎると視野がひろくなり不思議に気力が抜けて雑念が増える。正面より少し下にして目は半開がやはり効率的だ。
座る事に慣れてくると、雑念からどうしたら開放できるかと[目と耳]との問題に取組む。これが何時までも問題になって来る。実に厄介な代物だ。人間が苦しむほとんどは[目と耳]から誘発されるのではないかと思う。
昼からの事、雑念は一息の間にやはり出るのだがとても気分がいい。楽しいと言うか気持ちがいいと言うか楽と言うか表現できない。たぶん雑念の力が弱くなって乱れの振幅度が小幅になったのだろう。私のどこかでニコッとした。
誰か禅堂に来られ坐禅される。一人は十楽先生だがもう一人は知らない方か? 心が動く。(気にする事はない!)そう思ったらスカッと切れて奇麗に消えた。
(アラ? 不思議だ! 何だろうかこれは!)思いからパッと脱出していたのだ。(前後のない今だけとはこの事か!)
しかしその日も[無の境地]に入る事なく床に着く。自分に対して苛立ちが起こる。[つまらない人間なんだ。私って!)いつもなら涙なのに・・・・
でも、あの不思議な切れは何だろう? よし! 明日こそきっとあの境地を掴んでやる!
込上げる笑い
そう言えば先生のいらっしゃらないという事も思わずに眠った。先生は私の心の弱さを気づかって下さりどんなに遅くなっても道場に帰って来られ、そうでない時は毎晩遅くまで坐禅される嵩さんに泊まってくれるよう頼んで下さったりもした。初めての安らかな一人であった。
四六時中目分の心をジッとみつめられるようになったのだろうか? 鳩さんと一緒に起きてすぐ禅堂に入る。
六日目の朝はかなり深い落ち着きの実感から始まった。でも自分にそれ以上の闘志が沸かない為か、相も変らず一息と雑念の繰り返しでお昼となった。昨夜のあの鮮やかな切れに近い状態は間々有るのだが、あの心境にはとうとうなれなかった。努力不足か? これ以上の努力はどうすれば出るのだ! 先輩方は一体どのようにされたのだろうか?
食卓に変ったものが出ている。今まで見た事の無い食べ物。先生にはいい加減口が災いしているのでうっかりこれ以上言ってしまったら、即お風呂に逆さまに投げ込まれるだろう。しかし気になる。
すると先生は、
「マカロニなるものを初めて食べます。」マカロニは分かるが、(果たしてこれ食べられるのかな?)ゆでてマヨネーズ少しと分からないおしるがたっぷり。てっぺんにニラの微塵ぎり、それがスープ皿に盛られていた。(サラダにするつもりがこんな風になって・・・・)と不安と好奇心とで一口食べて見た。中華風ドレッシングが程良く利いてなかなか美味しい。(こんな食べ方もあったのか! こんな事を和尚様にさせてしまって申し訳がない、早く[無の境地]に達しなければ)と思いつつも、
「先生は何処でこんな御料理を御知りになったのですか?」とお聞きしていた。
「現物を見るのは初めてだ、このての物はこんなもんで何とか成るものだ。」
「全然何も知らなくて作られたのですか?」
「そうだよ。」チョイチョイ出て来る不思議な食べ物は先生の全くの独創性から生まれた物だった。
「食べられるが何だか分からん食べ物だな。」ケロッとして言いながら一心に食べて居られるのを見て、お腹の中から爽快な笑いが込上げて来た。下手に笑ったりしたらえらい事になる、笑いを堪えて一生懸命食べた。
「今度家でも作っていただこう。」何しろ笑いの持って行くところが無かったのでそう言った。おいしいと言うより爽快と言うより、少し変で真面目にいただくと笑いの出る珍しい食べ物だった。
少林窟に来て初めての爽快な笑いだった、がそれから何故か物事に対して笑えてしようがない。心がはずんでいる。ジメッとしたものが何時の間にか消えているのだ。悪い事に先生が急に恐くなくなってサラッとした自分になっている。態度ではなく気持ちである。その分だけ心は軽くそして明るくなっていた。
栗拾い
昼から禅堂を掃除するように言われた。先生が行動を許した記念すべき出来事である。お蒲団等を上げて服に着換える。身軽になって禅堂へ行く。座布を一箇所に集めるのに一つ一つ運ぶ。一々新鮮であり、はっきりしている。心にもた付きが無く、何をしてもしている事柄に囚われなくなっているのだ。只この体が対応しているにすぎない。いつの間にか終わっていた。
外回りである。初めて外に出た。物事が総て新鮮に見えるのは禅堂と同じ。
栗が落ちている。(どうしよう?)
この時初めて迷いの心を感じた。先生は「総て只見なさい。」と言われた。只見ても栗は栗でそこらのゴミと等しくはない。只見る時ゴミとも栗とも思う暇は無い、その事も知った今、栗を栗として、しかも栗でもない対応、これこそ禅修行の特殊性だと思った。
(どうする?)分かりかけてはいるものの実用となると何ともならない自分がもどかしい。「食物を大切に」とよく注意されている。
今は掃除の時、ゴミとも思わなかったらどれもこれも皆ゴミとなってしまうではないか。粟がゴミか? そんなむたいな事をしていたら世の条理が無秩序になってしまい混乱してしまう。栗は栗だ。ゴミはゴミだ。しかし栗もゴミもない宇宙である[只の因縁]はどうする。この方が総てを総括した無限の真理ではないのか!
[禅の修行は自分の見解をはなれ、その物に徹して自分を忘れる。無我になるとはその事]で、先生より知らない間にそこらが分かるように指導されていた。
私は先生の弟子である。ここらがはっきりしなければとても門からは出してもらえないだろうし、とりわけ自分が情けない。先生が行動を許し掃除をさせるにはそこらに幾許の問題を提起している事は無視できない。
私はほう木を持ったまま、たった小さな栗の為に動きを封じられ、何の修行をしてきたのか改めて自分に問いなおした。別に心が乱れ感情の整理が出来なくて困っているのではない。只先生に就いて修行して来た事の意義を問いなおしているのだ。
(こんな事が分からないなんて先生に申し訳がない。)
私は何か分かりかけているのに、分からないもどかしさを整理していない事に気付いた。
[只見る]と、それはそれでしかない。
(もっと素直になれ!)と自分に言い聞かせた。
私は栗を拾い始めた。[只拾った。]それは栗という物を拾っているのではなかった。静かにその物を手で掴み片手に積み上げていた。それしかなかった。
何だ! 只拾えば良かったのだ!
その事が栗でありながら栗を超越している事だったのだ!
充実感と遠回りしたアホらしさの笑いが出て来た。(何だ何だ!)でも、ひょっとしたら、
「こら! 修行中にこんな物に心を奮われるような生っちょろい事でどうする!」とビンタを食らわされかねない一抹の思いが有った。それも本当だから、その時はその時!
私にかつてない明快な覚悟がすぐに用意出来た。(きまりだ!)
ほうきの音も軽やかに一掃きは進み、目に見える結果を見て悦に入った。
しかし一掃きを完全なるものにするという事は大変なことだ。一掃きの完全なるものとは完全なる一掃きで掃き切るという事だ。今の私には到底出来ることではなかった。
やっぱり来た
作務を終えた頃、広島の永岡さんが見えられた。袴を着つけるとやはり動作に深みが出る。先生のお呼びで三人はお茶を頂く。永岡さんも静かに心の動きを見守っていらっしゃる。
「玉桂さん、只聞いていなさい。」と言われて、永岡さんに先生の[般若心経]の原稿を呼んで聞かせられる。専門語が沢山出て来る。分かる分からぬ無しに、本当に心静かに聞く事が出来た。以前の私であったら、意味の分からない言葉が続くと、頭が混乱して慌てたりもがいたりして心は乱れ、分からない自分を認めたくないばっかりに理屈を言ったりしていた。
(禅の世界ってどうしてこんなに不思議なんだろう。)自分にはとても分かり得ない大変難しい事が御経だと思っていた。とにかくその意味する大意が分かるのだ。自分の事として自分の心の問題として聞取れるし分かる。全部がではなく分からないと思っていたのに分かる。
(これが御経なのか! 面白い!)
(何だ、先生がいつも言っておられる事を御経はエッセンス的に説かれているだけだ!)
先生の朗読は終わった。
「竹の葉は何色ですか?」(やっぱり来た!)
先生の指差す向こうには孟宗竹がズラッと有る。私はそれを[ただ見る]だけで総てだった。どのような言葉も必要なかった。[その物の色はその物の色でしかない]からだ。それが答えだった。
この上答えるとすると別に何を言っても、言葉の世界でない事を言葉で言っても無駄だと思った。そして又、その事が分かっていたら何を言っても同じだとも思った。その物でないかぎり当たっていない事には違いないから。
「竹の葉色です。」当たっていなくても素直に言った事は、有りのままに於いてそのものであるからその点で一致している筈だと思った。
「違う。言葉を忘れてその物になりなさい。」私は自分の今の限界を知った。どうしても答えようがない。それが又自然で全然気にもならないのが不思議であった。多分分かったとしてもこのままの気持ちだろうと思った。
特別な気持ちからではなく、何も無いカラッとした笑いが出始めたので下を向いて笑ってしまった。「何が可笑しいのですか?」と言いながら先生も笑っておられた。
「はあー、きっとこんな質問をされるだろうと思っていたので・・・・やっぱりと言う感じで」
と言いながら先生も永岡さんもいらっしゃるのにちっとも気にならないままケラケラ心の底から笑ってしまった。そして笑いの中から、
「その物の色はその物の色でしかないのでどんな言葉もそれを言い伝える事は出来ませんので。」と言うと、
「だからその物になり切ってその物自体に目覚めるしか道は無いのだ。君はもうその物に突き当っているから徹するだけだ。
さっきの般若心経の[無の眼耳鼻舌身意、無の色声香味触法]と有る通り目や耳に於いて展開する総ては皆自分の問題であり心の問題である。心が治ると皆その侭に治ってしまうのも、向うは只緑に過ぎないしその他に何にも無いからだ。
空とか無とか言う意味は、こちらが収ってしまうと相手も消えて無くなる、ところがこちらが消滅してしまうと同時に相手そのものに成ってしまい一体と成る。相手が無くなると言ったのはこの事で、執着の余地の無いカラッとした[只]の様子と、困緑果の一時の様子に過ぎなくて縁に従って自由に何にでも姿形を替えるので、その様子具合を現した言い振りが[空]とか[無]とかだ。
道元禅師の「聞くままに又心なき身にしあれば己なりけり軒の玉水」と言われたも、すでに君には良く分かるだろう。
古人も「三界唯一心造」と言われている。一瞬の一念の始末が付くと[心とすべきかたまりものが無い]ことが分かり、見聞覚知の世界総てが心であるという絶対観しかないのだ。総ての世界は心に因って生まれているのだよ。
そのことは初めから理屈もないし迷っていない因果の真理その侭なのだ。それをどうとかしたがって意味づけをしようとする心の根本的な癖が煩悩にしてしまう。
これが迷いの根源、苦しみの根本原因だと分かればその治療をするしかない。つまりその癖をとることであり、正しく修行する事である。
一瞬に起こるたったの一念を見届けるだけだから、一瞬を離したら根本的に修行にならないぞ。
自分に展開する一瞬一瞬の心がその時の総ての世界を造っている。
良く頑張りましたね。これからですよ。益々頑張りなさい! いいですか!」
先生の部屋から禅堂に向かう時、ハッキリ格段に違う、何かが格段に違う自分を知った。
私のために!
夕方「御風呂にゆっくり入って一週間の垢を落としなさい。」と言われて先生自ら沸して下さいました。(やっと御許しが頂けたか! そう言えば、その後入っては居なかったが気にならなかったな。)頭を洗うと普通でも一時間はかかる。ゆっくりだから倍はかけただろうか。
風呂から出るとあきれた顔で、
「随分長い風呂ですね。」
「はあ、(しまった先生も入られるのであったか!)ゆっくり入りなさいと言われましたのでそうさせて頂きました。」
「ああ、そうでしたね。」その他に何も言われなかったのは救いであった。
私がお風呂を済ませると間もなく二、三人が来られた。嵩さんとスーパーマミーの方々だった。そして小積社長さん。
(この人か、和尚死ね! と言って先生を殺した人は!)と思って西谷さんを見る。
私のために山門到着と激励の宴が開かれる事になり、こんな私のために忙しい中皆さんが集まって下さるのだそうです。心からもったいないと思い感謝の念が込上げて来た。
先生の次の上座に座らせて頂き、皆さんの格調高く祝福して下さる心が、真綿の様に私を包んでくれた。私のための乾杯が終わるや否や、
「玉桂さん、今の心境は?」と先生に言われて我に還った。
「はい。今は何にもありません!」ときっぱり答えていた。
「その一言、なによりだ! 本当に良く頑張りましたね。」
「うわ! 本当に嬉しいな!」と小積さん。[参禅記]の通りの人なので驚いた。皆さんの会話がそのまま私の世界の事として総て無抵抗に総て分かる。皆さんのお話は終始心のこと、生きざまのこと、そして禅のことでした。本当に不思議な世界だ。
盛大な宴会は十時前に終わった。華麗なる紳士、頼もしき快男児達に囲まれて忘れていた使い古しの乙女心が邪魔をしてか? あまり箸も進まなかった。多少箸の持ち方を気にして・・・・
自分に気が付いた時、心境はかなり落ちて居た。直に禅堂へ行く。
十一時過ぎ部屋に戻る。先程の匂いが微かにする他は元の静けさである。嵩さんも西谷さんも未だ禅堂に居られる。皆さん頑張って居られるのだが、お腹がすいて座ることも眠ることも出来そうにない。(御茶漬けでもたべたいな)そう思いながら床に付く。
包丁の音
七日目の朝五時、少林窟名物鴬張りの廊下が鳴く。それもすぐ足許である。
(どなたかな? 嵩さんだ! 昨日は泊まられたのか。凄い気の入れようだなあ。だったら西谷さんもだ。二人の事を感心している場合ではないぞ! それに今日から食事を作らなければ・・・・)
これが又気が重い。先生のあの包丁の音を聞いてしまったら恥かしくて、お箸ではないけれど私の包丁の音を聞いたら何と言って飛んで来られるか分からないのだから・・・・
指に羞恥心をかき集めて、一切り一切りするその不格好なる私を指差して「何だいそれは! 幼稚園のままごとゴッコの練習でもしているのかい、ガッハッハッハッ!」なんて笑われた暁には幾ら古びたとはいえ乙女心らしきものがはぶてて、私はそれに一生呪われることになってしまう。
先生の味付にも何時も感心して頂いた。奥様のお手製のイリコのだしを大変上手に使われて、見事な味を演出させ、独創性を無難に救っておられる。幸いな事に八日以降もお客様が次から次へと出入りされる。お陰で私の食事は豪華版であった。先生は私がどんな物を作ってもただ「美味しい! 食べ過ぎてしまう。」と言って食べて下さる。次第に自信が付く。喜んで食べて貰える事の安心感はそのまま喜びでもあった。
人間関係で人様に安心を与え喜びを与えられる私に成りたいと思った。そう成って本当の大人と言えるのではないかとも思った。
こうして師から学ぷものの大きさは生活を一緒にさせて頂いて初めて分かった。
今日は何日?
もう心すれば[念無し]に見ることも聞くことも出来る。まことに爽やかであり安らかである。でも雑念は弱いながらひっきり無しに出ては消え出ては消え、消えては出消えては出て来る。しかも全く取り留めの無い一行程度の関連無しのものである。その他の事はどうしたものか一向に問題化して来ないからこれ又有難い方の不思議である。ふと、至って軽やかな事をいい事に、すっかり世間離れしている自分に気が付き、今日が一体何日の何曜日かも気にせず鮮やかに忘れていて見当が付かなくなっていた。又々それが可笑しくて一人爽快に笑ってしまった。
時に先生が、ほとんど常識以前の事柄なのに[知らない]と言う事に対して、何の懸念する事無くケロッとしておられた。私はそのたんびに煙に巻かれて戸惑ってしまった。深さの違いは当然として[知る知らない]に拘わらないこの心境は全く一切を越えさせて呉れるものであることは分かった。このまま突っ込んで行ったら、先生の言われている宝島に間違い無く辿りつくだろう。
ところが自分の内に漸く期待すべき素晴らしい光が見え始めたと言うのに、これ以上のものを得るための、これ以上の努力をしたいとは思えない。悔しいけれどもそういう自分、それだけの自分を認めてしまっていた。
とにかく今は[何もない無の心、只の心]でサラサラと流れている。こんな心の世界が有ったなんて想像も出来なかったことだが、何もかも総てをこの心境で見たり聞いたりし切る事は出来そうも無い。自分の中でチラチラ隙を突いて動いているものが確かにあるからだ。何時も余分なことを計らっている[得体の知れない心のクセ]がやっぱり息衡いているのがよく分かる。これを滅しさえしたら、確かに自分がなくなり、その時その時に納得した安心の世界になるであろう。
そのためにはひたすら[成り切り成り切りの今]でなければならないのたが、心が軽くなると何故か努力心が鈍ってしまう。修行は厳しい形とは別に、[今に打ち込む燃焼力]にその根本があるに違いない。自分のもろさがはがゆい。
しかし、般若心経の朗読して下さった[無眼耳鼻舌身意、無色声香昧触法]そして[色即是空空即是色]が説明は出来ないが細やかな実感がするところまでは来させて貰う事が出来た。
十月に入ると山鳩は遅く鳴くのか、私が良く眠っているのか五時半に気付く事はなかった。或日、
「先生、今日は何曜日ですか?」と御聞きして見た。
「日曜日ですよ。」
「勝運寺の木魚は鳴りましたか? 山鳩は?」
「皆ちゃんと。」(やっぱり。私が良く眠っていたのだ。現在値が上がって心がゆったり出来るようになったか、修行に必要な緊張感が弱ったか? 両方か? だとすると泣き笑いたが。)
愛しき姉よ
その日、裏―帯を掃除するように言われた。そこは山を控えた、裏側にあり勝ちな薄暗くジトッとした気色の悪い所。一カ月も前なら、「ナメクジが出そう、ヘビが出そう、ムカデが出そう」などなど色々気持ちが上って、「気持ちが悪いからイヤ!」とでも言ったに違いない。とそんな事を思いつつ拘りなしに淡々と作業している自分を嬉しく思った。
本当に心が解決したなら人生これほど素晴らしい事はないだろうなとも思った。そんな時、竜山先生のお経が聞えて来た。私がここに居る事を御存じないのだろう? 一度くらいけなげに頑張っている私の様子を見に来て、もっと勇気付けて欲しいと思ったりした。
希道先生は微笑みながら、「兄の御経は風雅に言えば演歌調だな。」と言われた。黙って竜山先生の御経を聞いていた。この様に成ってからは今の現実の中にスッポリ入り切ったままで、ついぞ親の事も友達の事も何もかも忘れていた。なのに竜山先生の御経の事から希道先生の御兄弟の事に思いが走り、先生のご兄弟と私の兄姉の人数、年齢構成がそっくりである事を思い出した。
希道先生は竜山先生の兄としての愛を感謝してしっかりと受け止めておられるのだが、弟として兄に甘えて行く姿を見た事がない。いつも厳しいけじめに立って接して居られたから、いきなり「兄の御経は演歌調だ。」今の私には俗っぽい響きであった。こんな事を考えて居たら悲しい別れをした三番目の姉の事を思い出した。先生は、
「玉桂さん、貴女の親切や思いやりは前後がひっついていたから心に問題が起こったのだ。禅は今だけに成り切って前後を見ない。貴女が心のままに素直にした親切も、相手を立てて相手に対してしていくと問題が起こる。相手を助けるためでもただ尽くすだけ。[した、やってやった]という心が何処から起こって来るかを参究するのが禅の第一の用心である。
何処で前後を付けてしまうのか、何時相手を立て自分が構えてしまうのか。何れも比較や分別の立脚点を意識、無意識に拘らず持っているから起こる事なのだ。これを我見と言う。
これを越える道はその物に成り切って我を忘れて行くことしかないのだ。」
先生はこんな話に終始する。そして恐いのは必ず、
「その物に成り切るとは?」と来られる事であり、それが又どんな時に来るのか分からないし、
「それは何時だ?」と追詰められる事だ。だから動きを許されてから先生と接近した生活には常に[今の行動、している事]から心を離されない。
こうした師の指導の尊さは自分の心の豊かさに目覚めて行く度に思う。師はあらゆる角度から治療をほどこして下さっている事が分かる。姉の事でも、「君はお姉さんがたった一人で他人の中で過していた時の辛さ悲しさが分かるか?」と聞かれて[ドキッ!]とした。それから急に姉が見える様になって行った。氷付いていた自分の視点が又一つ壊れて行った。
彼女は私より六歳上で私たち兄姉の中では桁外れの自由な生き方をして来たように私には見える。最初は看護婦、その次は小学校の教員、又看護婦。親を勝手に病気にして長期休暇を取り外国旅行。初めは家族に相談もし了承の上であったが次第に一人で決めて無断で出発。私は姉の行動を知らない事が多かった。私の専修学校時代、その姉の声に起こされた。「かよちゃん、かよちゃん!」
数日後、姉の声が妙に気になり姉の職場を尋ねた。学校からバスで五、六分の所にあった。
「お姉さんはイギリスヘ行かれましたよ。」ショックだった。
(あの声は飛行機の中からだったかも知れない)と思ったら、胸が締めつけられた。遥かな空の向うに姉の無事を祈らずには居られなかった。それから勝手気ままな振る舞いを続け、私だけでも随分嫌な思いをさせられてきた。心の一部には既に姉妹としての縁を捨てていたし、うんざりしていた。
希道先生のフトした言葉からこれらを思い出してしまったが、いちいちが驚くばかりにはっきりとしかも新鮮に出て来た。それらに対して総ての感情はなく、過去に展開されて来た人間関係のその時その時の環境と必然性の様な個々の心が深く見えるのには驚いてしまった。自分の心の薄さも狭さも、姉がその場しのぎを結果的にし続けてしまった心の元、[今どうやって自分の目的を果すか]の行動を起こし実行する事に殆ど総ての知識が傾けられていた事がようやく見えた。
知能指数が高い彼女にしてみても、その動きが国際的であまりに広すぎ確実な計画を立てるには時間も知識も間に合わなかったのだ。そう成ってしまうとどうしても[何とかしなければ、成ってしまえば後は何とか成る]であったろう、その一番効率の高い相手選びという運び。それはやはり無理の言える私となって当然であった訳。
ここまで来た時、(お姉ちゃん、サッスガダネ!)とポイントの確かさ、行動力、素速さに感心して笑いが出た。
何故彼女が一人だけ桁違いな自由人と成ってしまったのか、そんな性格が出来上がる過程が或程度見えて来た。彼女は父が入院している間、母の実家に預けられていた。小学校高学年から中学一年までであった。物質面が豊かで在れば在るほど、見せびらかしたりうらやましがったり喜びあったり悲しみあったり出来ない時、それらは如何に淋しさを誘い悲しみを呼んだ事か。彼女にとっては何の豊かさにも成って居なかった筈だ。
少ない物を分けあい貸しあいして貧しいながら肩を寄せあって親の元で伸び伸び生活していた時を、幾度も思い出し一人悲しんで来たに違いない。そればかりか、いきなり心は人の顔色を伺うものになり、弾んでもつれあった心は遠慮に変り、生活の総てに監視の目を感じて心は冷えたであろう。母に兄に姉に妹に何の遠慮も無く心をぶっつけて居たような事がそこで一度くらい在っただろうか。賢い姉はそんな事をして母を悲しませたり苦しめたりは決してせずに、ただひたすら感情を殺し僅かな隙間から自分の息をしていたに違いない。
どんなにか親の元で兄姉妹と暮らしたかったであろう。急速に自我が出来上がっていき大人気分に成って行く時だけに、遠慮してきた分だけ遠慮なしに我がままをすることで姉妹の根本的なものを取り戻したかっただろう。一人だけが貧乏だったのではないから、その時も、それから一緒に暮らしても彼女の心痛を私たちは考え理解した事が在っただろうか。私が思うに彼女を励まし姉妹の温かさを確認する事が出来るような気遣いをした記憶は無い。
私は何時も姉としてのみ要求して来た。彼女は私が困っていると口だけではなく即行勤して呉れる頼もしい姉であった。
私たちに取って来た自由な振舞は、本当の兄姉妹で在りたかったしそのためには誰によりも私たちにぶっつけて、それを自然に受け入れて貰い許しあって貰えるものと目出度くもそう思っていた幼きその頃のままが出たのであろう。
やっと姉が理解出来る妹に成れたような気がする。今の心境で姉に会う事が出来たなら、ただただ素直に抱き合って泣き、すっかり何も無かった昔に帰る事が出来るだろう。新たなる姉妹の楽しみが出来て、ついぞ無かった喜びを感じた一時。心が解けるとは実に素晴らしいことだと感激した。
坐禅に因って開かれて行く私の冷えた心は、次第に温もりの上がって行くのが分かる。
感動! 夢影録「ある子育て記」
十月九日、参禅も実にからりとして、ちょくちょく出続ける雑念も御機嫌伺い程度の邪魔でしかない。それからは先生の言われる事が心の奥深くにまで理解出来るので好んで多くの事を聞くようにした。あたかも人間を知り切っておられる様に感じた。いままで自分が読んで来たどんな本よりも深かったので、今までの雑多な知識が纏められ整理されて行った。そんな心の深さと力を付けていたのだとは知らなかった。
先生はお手元に在る原稿をさりげなく次々に読んで下さった。どれも面白かった。
広島から新たな参禅者が来られるらしい。ちょっと掃除をした。
夕食を終え、先生のお部屋で[夢影録]と題した日記風の子育て記を読んで下さる。何時ものように「ただ聞いていなさい」との事であったが感情が動く。それは余りにも生々しいからどうしても今の私の力では越えられなかった。ただの感動ではなかった。私は涙が出始めた。ただ読み続けられているだろう先生は義光老師の亡くなられる数日前の部分まで来ると涙声になり、次第に声が詰り、後は黙ったまま。涙はポロポロ、流れる涙を拭こうともされずに。(本当に師を慕っておられたのだ!)
暫く沈黙は続いた。私は別口で泣いていた。
そこへ西谷さんが作務衣に身を包み入って来られた。実に丁寧な動作である。こういうのを隙が無いと言うのだろうか? 見取れてしまった。ここに来られる人はどなたも皆これだから未熟な私は狼狽えてしまう。世間では滅多に見られない研ぎ澄まされた真剣なる光景である。
少し話をされて再び師と弟子とのビシッと決った挨拶があり、西谷さんは禅堂へ行かれた。二人の涙は止まっていた。又原稿の続きへ。
読まれる事しばし、今度は小積さんと、新たに広島から大田さんが来られた。美しい挨拶。
[参禅の心得]は一つである筈、私の初日と同じ様な事を話される。
アッ! と驚いた。先生のお語を自分流の雑念で聞いている。只聞いていない。心が浮ついている。先生の言われる事が理解しかねているのがそのまま見えるのだ。
自分もあんな状態だったのだろうと思うと笑えて来た。でも本人に取って見れば大変な事で、決して彼を笑ったり出来る事ではない。私の過去を見て可笑しかったのだ。
お話が終わった。きっちり坐禅の方法が飲み込めて大田さんの真剣さは軌道に乗った。気迫が伝わって来る。お二人は禅堂へ行かれ、原稿は進む。
十一時過ぎ、小積さん西谷さんが禅堂から帰って来られた。そこで中止された原稿は未だ半分以上残っていて、私はとても諦め切れずお借りして枕元で読みふけった。終わりまで読み切りたくても達筆すぎてなかなか前に進まない。何かが高ぶって眠れなかった。
六時、朝食の準備に掛かるべく食堂に行こうとすると、
「今君が行くと大田さんが起きますよ。彼は昨夜大変遅くまで頑張っていたからもう少し寝かせて上げなさいこ。」と先生の声、(助かった! 本当は私も大変眠た~いの!)
朝食はパンの耳、スープ、サラダ、牛乳。出来るだけ技術の要らないメニューに努力。大田さんの動作は隙だらけ、今どんなに言われても焦点が決らないからどうしようもないかも。さすがに先生、何にも言われない。その代わり終わってから法話。ギッチリねじを巻かれる。
昼食は西谷さんのお陰で免れた。お刺身を買って来られ鮮やかな身のこなしで、私は台所でウロウロとお邪魔虫。(これでは女性に見て貰えそうにないな。)
早く夕食の下準備を済ませて禅堂に行く。総てが楽なのに未だ自然と一体になれない。音はただそのままに聞え、小鳥の声も木々の音も関係無く聞いているのだが、はっきり聞いている自分があって意識の世界に居るらしい。[聞く、聞かんを離れ本当に無意識の中にただ聞けばそれが禅の世界]であろうが、やはり私は五分の一人前。(勝運寺の全盛期には修行者が六十五人と半人居た。半人とは尼僧なりと書物に書いてあったげな、昔は随分乱暴な扱いをしたものだと、希道先生よりお聞きする。尼僧様が半人なら私は五分の一人前)
大田さんが一息に苦労している。分かる分かる。今は彼の邪魔しないように禅堂を出て庭で工夫する。先生のお呼びで昨夜の続きを呼んでいただく。山根さんが来られた。中断。夕食後も続きを聞かせて下さる。十時過ぎに終わった。[感動!][感激!]私にはこれしか表現できない。まだこの何倍も在るのだそうだ。早く読みたい!
先生に、「愛する事とは何をする事ですか?」とお尋ねした事がある。すぐ答えて下さった。
「愛する事とは信じ切ることであり、自分を忘れてその人の幸せを祈ることであり、そうなって貰う為に尽くすことであり、隔てなく与え合うことであり感謝しながら求め合うことであり、その人の幸せを心から喜ぶことであり、その人の悲しみを条件無しに悲しむことであり、その人の為に喜んで耐えることであり、その人の為により多くより深くより美しい心を与えたいと祈ることであり、その為に自分の心身を大切にし時を惜しんで努力することであり、その人の存在を神仏に感謝することである。純一にして条件を持たない心である。畢竟無我の心である。心を明らかにしないで得る事が出来ると思うか! 解決の無い愛は条件によって変り、悪条件が重なると苦しみとなり憎しみとなり、これを迷いと言う。」
(なんと! これが先生ご夫妻なのか! 宗教そのものだ! しかも生きている!)
明日食べる物が無くても自分の夢を託せ、それに答えて呉れる主人であるなら女は幸せなのだ。
[夢影録、恵照記]は物質的には無い物だらけ、しかし心情的には限りなく豊かで満ち溢れているではないか! ズシーンと心を打たれた。読んだどんな本よりも感動した。先生に言った。
「これ、絶対本にして下さい! 世界中全部の人に読ませて上げたい! 世の中に必要な本です!」
その夜は眠れなかった。
怪物君
大田さんが禅堂で死物狂いになって頑張っている時、その心が分かるだけに私は先輩の思いやりと、先輩の優位性であろう[今行動しつつ、それに拘わらない只の心]で禅堂に行かないで、あれをしたりこれをしたり。[無の心]に成り切り成り切りの努力をするのだが、か弱いながら雑念は一向に枯れ切らない。努力の鈍っている事が自分で分かる。決して楽をしようなどと思ってはいない、むしろ真剣に取り組んでいるのだが、何時のまにか上滑りしている感じである。とは言っても心も軽く身も軽く、何をしても抵抗なしに自然に動いて行く。速度をぐんと落として、ゆっくりと、はっきりとやればその物とぴったりだ。(いいぞ! その調子だ!)とつい観察して余分な計らいをする。
季節的に一番気持ちのいい時、天気も申し分なし。自分の部屋の掃除に掛かった。フッと顔を上げかけたら窓の下に先生が居られた。栗のイガが沢山在り葉っぱと共にセッセとドラムカンに入れて焚いて居られた。(アリャ? 先生だ。)と気づいたのは二息も三息もたってからであった。完全に只見ていた。私は窓越しにごみ箱を渡そうとした時、先生は初めて私に気づかれて、「ヨゥ!」と言ってそれを受取り、捨てて、「ホイサッ!」と言って空箱を渡して下さる。
何とも無邪気で親しみのある先生だが、常に予測の付かない不気味さが在って近寄りやすく近寄り難い。師の威厳と言うものが何であるのか分からないが、衣を着て構えたところが全く無いだけに、こちらもそう言った威圧感も何にも余分な気持ちを持たなくて済む。
しかし、時と所に拘らず出会い頭に説法が始まり、教えられた通りに[今、その物に成っているか、自分流が入っているか居ないか]検閲される。そして寸分のずれも無いように軌道修正される。
これが恐い! 先生の総てがここに集約されているからだ。日常の全般であるから堪らない。
私にほんの少し意地が不足していたらとってもここには居られなくて一番大切な時期[自我をねじ伏せる急所]が掴める一歩手前で逃げ出して居るだろう。
ここから先は考えられない世界が開けて行くから、逃げ出すどころではなくなるのだが。
そこに居られる師の姿というものは、完成されたと言うか、衣を常に着て枯れた動きの少ない穏やかなる僧、薄暗い部屋の遠くに居るのが似合うと言うものではなく、常に作務衣で禅堂であれ、食事であれ、客の応対であれ、てらいの無い無邪気な自然の動きの中にスッポリ私たちを包み込む。そして何時も我々修行者の心の中に居て一刻も早く急所を掴ませようと無駄を取って下さる。だから上から教えに掛かるのではなく常に教えの中に居る様に指導される。
ここらから師の居場所は自分達の回り全体に在って神出鬼没と成って来る、心理的に。
何時も一緒に居ると、根本条件である人間性、精神が浮き彫りになってくる様に、着ている物にあまり意味を感じなくなる。師が今何を着ていようとこちらはそれどころではない。
自分の問題だけに終始しているからだ。そうあるように指導の全分を注がれる師を前にした時、ほとばしり出る一言一言の都度、自分の心が楽に変革して行くのを実感する。修行者は自然意識、無意識に拘らず常に師の指針を感じ取って進む。尊敬、恐れ、そして絶対な依頼感、信頼感である。
師の尊厳とは、[目的に対しては絶対感を与え、その他の総ての事を意識させない指導力]だと思う。俗っぽい意識でなら当然格好がいいとか悪いとかが、即その程度の尊敬や信頼に拘わってしまう筈だ。しかしそのようなウスッペライ世俗の心故に本質が見えないのであるから、それを破る為の修行を指導して貰うわけである。世俗のべールを破ろうとしつつ、格好に支配されていくそれらの心を破らせてくれる人こそ、この道の指導者であろう。
むしろその力の無い人は、例え立派な衣を着こなし学が十分あったとしても、実際に私たち衆生の者にはその問題に限り何の役にも立たないと思う。とにかくその師に出会う事が第一であることは確かである。
こうして次第に先生の全容らしきものが見え始めると、一人間、一男性としてどのように人物評価していいのか分からなくなってしまった。師に対してではなく存在している人としてである。
先生は内緒の出来ない人である。お酒を適当に愛される先生は一人の時でも、お客様なら尚の事開けっぴろげで飲まれる。気持ちがいい。ところがおったまげる事が婁々ある。
つい昨日の事、御飯の中に白い虫がいたので気持ちが悪くなった。
「先生これ! 私、困ります!」と言いながら取り出した。すると、
「何を言っとるか! 純粋な米を食べているのに汚い筈はない! 良質な蛋白質だ、遠慮せずに只食ベなさい!」(悪い冗談は止めて下さい、私はゲテ物食いではありません!)とはさすがに口には出せなかった。(先生にはデリカシー有るのかな?)
「只食ベればいいのに。しかし見落しってあるんだな。こんなに大きいのに、まあダシぐらい出ただろう。な、御飯が美味しいだろう。」(やっぱり少しずれてる!)
中の掃除も終わり私は外に出た。先生は未だドラムカンの回りの掃除をされていた。
(あれだけ何でもかんでもケロッとしてやるなんて一体どうなっているんだ!)と分からなくなる。
(いや、絶対納得のいく理解がある筈だ。)と妄想に力が入り出す。手伝うともなく表面もくもくと同じ様な事をして、
(分からない、で引込む程私はやわな理屈家じゃないのだ!)と妄想も本気になったら妄想禅、その事に夢中になる。
(だいたいこれで宗教家なのが可笑しいのだ!)と変な論理になって来た。
(次から次へとあれだけ深い事が口から出て来るし、何でもしてしまう千手観音みたいな手、仏から鬼への変貌、どうみてもまともな人間ではないぞこれは!)師であることも先生であることも忘れて、
(そうだ! 人間だなんて思うからこんがらがってしまう、人間と思わなければいいのだ。)もう目茶苦茶。
(立派な頭とズレタ頭とで二人分、あれこれする手は三人分、それをまとめてワンパック、人間の格好したそれが先生! キマリ!)
すぐに先生の打って付けの名前が浮かんだ。
「先生は怪物君だ! そうだ、竹原の怪物君だ! 怪物、少林窟に潜む!」と言ってしまった。
「コラ! 人を勝手に怪物なんかにすな! 誰かもそんな事を言ったな!」
「えっ? やっぱり・・・・私だけじゃなかったんだ!」嬉しい笑いだった。
先生はどっちかと言うと[快僧]であって決して[怪僧]ではない、が[怪物]的要素が多分にあるので叩かれた分を考慮すれば[快僧]だけでは物足りない。だからこの際は[怪物]の方がお勧め品である。(後がコワイ!)
海蔵寺二度目か三度目か(人使いの荒い)先生の後に付いて倉庫へ行って驚いたのはずっと前。(何と! これ、本当にお寺の御住職の持物?)
おびただしい道具である。聞いて見た。電気のこ大中小三器、電気かんな大小三器、電気ドリル大中小四器、手動二器、その刃三十本、かなざし三本、グラインダー一器とその砥石十丁以上、万力、カンナ六丁、ノミ三十本以上、金槌十丁以上、鎌大(柄一二〇センチ)三丁、小十丁以上、のこ十丁以上、チェンソウ一器、チェンブロック一器、コンクリートミキサー、スコップ五丁、一輪車三台、(運搬車と動力一輸車は廃車)、左官こて八丁、その他ワイヤー、ロープ、バーナー、旧式プロ用裁断器、などなど数え切れない。
本堂と禅堂のあいだに印刷室がありそこに高性能オフセット印刷機があった。その隣はコンピュータールーム、ワープロであるが普通の物ではない、電算写植機が動かせる端末機とプロもあまり持ってないという活字出力機などがあった。
「これ全く手製」と手渡された一冊の本、何にも分からない私でも、格調高く立派な和綴の専門書であることは分かる。それを手にして、まさか目の前の和尚様のお手製だなんてとても信じられなかった。手製ではなくもう何冊も出版され、いずれも大変貴重な専門書ばかりだと言われる。
それに手伝って貰ったにせよ、コンピュータールームも印刷室も倉庫も食堂も居間も天井も床もこのお寺の殆どは手製で治され作られて来たのだそうである。少林窟道場もそうらしい。
土方、大工、水道工事、タイプ、ワープロ、印刷、原稿書き、出版等色々。
(お坊さんは何時するのですか?)と聞きたくなる。
「先生、大工さんも出来ますね。」と言ったことがある。又、「このお料理絶対うけますから、茶店風の料理屋をされたら如何ですか?」とも言ったことがある。「印刷屋」そして「出版」など驚く度に感嘆詞としてそんな失礼な冗談を言ってしまった。
又素晴らしい原稿を読んで下さる。(やはり先生には広く世界に向かって説いて頂くのが一番。)
「先生、やはり執筆家になって下さい。」(叱られるかな?)
「君はこの前大工さんになれと言ったじゃないか?」(先生悪乗りされた!)
「アッそうでした。じゃ、午前中原稿を書いて午後大工さんして下さい。」
「じゃ、茶店風の料理屋はどうなるんだ?」(先生結構冗談が好きなんだ!)私はますます冴える。
「アッそっか。そうでした。」と少し先生にやられた振りをする。そうしておいて、
「じゃぁ・・・・先生・・・・こうしましょ。」(こうなればいよいよ仕上だ!)
「何だ? 君は又つまらん妄想かいて。後から三十棒だからな!」(ここまで来て三十棒くらいで辞められません!)
「先ずですね、朝六時から十二時まで原稿を書いて下さい。」
「うんうん、それから?」
「十二時から夕方六時まで大工さんをして下さい。」(うまくいきますように!)
「それから?」
「六時から夜の十二時まで茶店をされて・・・・」(いよいよとどめだ!)
「・・・・」
「十二時から朝の六時まで印刷屋、そして出版活動に坐禅・・・・」
「バッカモン! 飯も食わさず寝かさず働かせて、この私を殺す気か!」(ヤッタ!)
「とんでもない先生! お食事は茶店で、雨が降れば大工さんはお休み・・・・でしょ!」忠海は雨の少ない所なのです!
(先生ゴメンナサイ! 覚悟してます。)
先生の愛
十月十二日、明日家に帰る。朝から浮ついた気持ちである。心が浮つくと一変に[今の焦点]がぼけて、妙に重苦しくなる。(残された時間も後僅か、頑張ろう)と気を入れる。メラメラと燃え上がらない。が(これでもか! これでもか!)と打込む。夕食の準備を早目に済ませてお風呂に入る。心は完全に帰る準備をしていた。とにかく心が[今その事]にジッと居なくて別の事に心引かれて行っているだけ。[だけ]と言ってもこれが大問題を起こす仕掛け人である。
殆どの場合この間で苦しむ。又何の生産性も発展性も無いこの苦しみは馬鹿げているばかり。そこを整理して行く急所は失っては居ないしチャンと掴ませて貰った事を有難く思う。しかし心軽やかにピタッと行っていないのをとても不自然に感ずる。
昼食の[うどんフルコース](先生発想料理の一つでうどんを繊細にゆで上げ、真似の出来ない実に美味しい出し汁たっぷり、これを主流に味を演出させる沢山の具、総て次の美味しさを準備するような順番、最後にただの素うどんの味合いは贅を満喫した感じになる。)美味しさにつられて皆食ベ過ぎたため夕食はずっと後にずらすことにした。
もう十月の中旬、禅堂の夜は寒い。沢山着込んで入る。背中が寒い。羽織る物を借りに先生の所へ行く。又どなたかお客様が居られる。チャンコとタオルケットを渡された。真剣そのものでなければならない時に先生の、
「努力ですよ。しっかりね!」と激励された言葉が心臓に届かず軽く「ハイ。」と返事してクスッと笑いが出た。ハッとした。
(締まらねばいけない!)と思って敷居の外にピタッと座り先生に手をついて御挨拶をした。
「有難うございました。しっかり座って来ます。」
先生は目の前に座られ、手を差し出され左右に動かして、
「手とかそれとかは別にして、動くとも動かないとも言わずして何と言う?」
何か言い掛けた瞬間いきなり左の頬を[ビシャッ!]
又質間。又何か喋った、[ビシャッ!]
今度は右の頬だった。左を打たれた時はもう涙が出ていた。[ハッ!]と我に帰る。先生は、
「本当に真剣にやらなければ駄目だ! 今までの功を台無しにしてどうする!」禅堂に向かってあるく。情けなさが込上げて来る。(私はこの二年間何を求めて居たのか?)
二年前、竜山先生のお部星で頬をぶたれた時は、痛さも感情もなかった。しかしさっきのは痛かったし感情があった。(女の顔をぶつ時は手加減しろ!)と馬鹿げた怒りがあった。(何日坐禅して来たのだこのざまは!)愚かな自分に腹が立つ。感情を切る為に懸命に一息に集中する。しかし涙は止まらない。トイレの前で涙を拭く。禅堂の入口まで来る。まだ感情があり心臓の鼓動が大きく波打っている。何度も何度も深呼吸をして入り座に就いた。
[今のみ、一息のみ]を言い聞かせる。そして実行する。すぐ心は落ち着いた。以前だったら絶対にこんなに鮮やかには行くまいと思った。
どれくらい経ったのか分からないが、母屋の戸を開けて中に入って行った足音が聞える。(大田さんは何にも物音を立てずに禅堂を出て行ったのだろうか?)私は眠るどころか、意識は冴えていたし眠気も無かったのだ。(凄い人だなあ)と感心する。
しかし私が[無の境地]に居たとしたら[禅]とは何だ? 彼が座を解いて何時立って禅堂を出たのかさっぱり感覚にも記憶にも無い。実社会でこんな事だったらとんでもない事が起きてしまう。自分一人で生きているのではないのだから。
実はこの死んだ状態こそもっとも大切な事で、自分を完全爆破するボタンをセットしたも同然と教えられた。そうとは知らず残念。とにかく完全に一息に成り切っていて他の一切が無かったのだ。先生は屡々、「成り切るとは我を忘れること、これが超越の道」だと言われる。そして、「三昧我れ知らず、死に切って縁より呼び覚まされた時、自己の正体がはっきりする」とも言われた。
全くの真空状態は大脳の知的性から言えば死んだと言ってもいいかも知れない。
その瞬間から一遍に目と耳の問題が落っこちていた。本当に不思議だ!
遅まきの夕食が始まった。大田さんがキッチリ定まったようだ。勿論私もである。[この透き通った心は、求めなければ得られないが、求め心が有ったら得られない。難しいように思えるが、ただ一心不乱に一呼吸をするだけでいい。]大田さんの晴ればれとした顔は[瞬間の今が煩悩と拘わらない]という事を気づき始めたところだ。やっと心の治る所、雑念を切る事が出来る様になってきたらしい。
そのきっかけは、どうも私がぶたれるほんの少し前にしっかりはがいじめに会ったようだ。大田さんも心が縮み上がった事だろう。(後から聞いた話によると、先生のお部星で同席されていた小積さんの前での事。「私も恐ろしかった。お陰でウロコが落ちたように無心の今が戻った。」と小積さん。)
先生の[愛]はしんみり感じ取れるまでに時間が掛かる。痛いやら、悲しいやら、悔しいやら、怒りやらなどなどの向うに辿り着いてようやくジーンと来る深くて強烈なものだから。私が浮ついて心を失っていたのを取り戻させて呉れたのだ。大田さん今夜から夢の中でも修行するかもよ。
別れ
十月十三日、朝から心が軽い。先生に出会うや、
「先生! 女の顔をぶつ時は手加減して下さい。顔が崩れるじゃないですか。ひどく痛かったですよ。」と自然に出た。冗談ユーモア忠告願望、どんな風に受取られてもいいと思って爽やかに笑った。
「ホウ、痛かったか。それは結構。ところで心が痛たかったか体が痛かったか?」
「・・・・(ヤブヘビだ)
「男、女、いちいちの存在が法だ。しかし法には存在、存在でないはないのだ。
法に男女はない。法に在らしめるのに男女の区別が何処に在る!
私が怒る時、君は男でも女でもないのだ! 痛いのを男式に痛いか女式に痛かったかと聞かれても痛さに男も女もないだろう。ただ痛い! これが法だ! 女式に痛かったと思う余地があったか?
自分が女だと思う心は何時、何処から出て来るかに精魂を注げ!」
(まったくだ。)と思った。しかし私を女としての存在を認めながら、女とも思っていない世界はやはり大きく超越しているとしか思いようがない。私の半径内に居ないと言われた先生は一体何処に?
[ゴータマ、ブッダ]の本の中に、[禅とは自らの力で自己を確立するためにするのである]と書かれていたが、言葉として理解しているに過ぎないと思った。と言う事は本当に分かっていないと言う事だ。日常生活と禅の関わりがこれからの課題となった。
最後の朝食は先生の手ずからのお粥、とても美味しかった。大田さんが来られてからずっと朝食はパンの耳だった。(ゴメンネ大田さん。)私がパンを食べたいと言ったら、先生は象に食べさせる程―抱えも買って来られるのですもの。
八時前、帰るに先立ち主人に電話をかけた。
「にいちゃん、わたし、離婚届用意出来てる?」
「馬鹿! 何を言うとるか!」電話の向うの声も弾んでいるように聞えた。
「今日帰るから。お土産は買って帰らないからね。お寿司を買って帰って呉れない?」
「うん、分かった!」ルンルン気分の私である。まだ参禅は終わっていないと言うのに。
十七日間使ったシーツを洗い、内外の掃除をする。大栗が一つだけあった。ドラム缶の残り火で焼いた。禅堂を一心に掃除している大田さん、(もうそこまで漕ぎ付けられたのですね。)邪魔しては悪いと思ったがその栗を彼に勧めた。彼を一見して分かった。
いい調子! 今にぴったり焦点が合っている!
(それを掴んだら雑念は出ているだろうけれども、意の所に心を持って行く事が出来る筈だし、自由に雑念が切れる筈です。頑張ってくださいね! 私も頑張りますから!)
縁側に座ってゆっくり食べる。「静かですね。」と言われる。彼は一息に徹した時の心境を質問して来る。(もう自分でも分かっていらっしゃるくせに・・・・人を試すのは少し早いぞ!)
「目に入る物は只景色として何事もない、聞えて来る音は物音として聞き取るのではなく只音としてのみ、意識ははっきりしているのに、無意識の内に見え、無意識の内に聞いて、そして何事もなく終わっている。」としか言えなかった。淀み無く彼はうなずいた。やっぱり分かっていたのだ。
「私の此の度の参禅は今日で終わりですが、今日からがスタートなんですね。」そんな話もした。足元をヤモリの子供がチョロチョロしている。彼はそれを捕まえようとする。
「どうして捕まえるの?」
「しっぽを自分で切って逃げるのを見せて上げようと思って。」
「可愛そうじゃない。」
「そうですね。」彼はそう言って再び禅堂の掃除に向かう。本当はどうやってヤモリ君はしっぽを切るのか見たかったのたが。彼の歩く後ろ姿の切れの良さに見とれ、一歩の確かさに心で拍手を送った。
四時三十二分の電車で帰る事にした。駅まで先生と大田さんが見送って下さる。
「理屈で物を見る癖が強いから、只景色を心無しに見なさい。」そう言われたのが参禅の最後の法話であった。少林窟道場を去るにも、今師や法友と別れるにも、感傷的なものなど無かった。無心に、「どうも有難うございました。」と言えたような気がした。これが本当の心からなのだが・・・・
まずい白菜(魔女の悪妻)
下りホームヘ行こうと階段を二、三段上がった時だ。大声が聞える。私に言われているような気がして振り返った。ホームに居た人が皆私を見ている。キョトンとしている私に、そばに居た高校生が
「ホームはここ。」と教えてくれた。
「何時から変ったの?」
「前からこの電車だけ。」
「アッ、そう。」と言った時はそれだけだった。何の感動も無いが、何の動揺も無い。以前のような失敗感も恥ずかしさも何にも無かった。(これが自然なのだなあ)と思った。
車窓の眺めはいたって爽やか、特別な感じは何にも無い。(只の心とは何と軽やかなんだろう!)大乗を過ぎた荒れ地で、生まれて初めて野性のキジを見た。嬉しかった。
竹原に着いた。自分が変っていた事をここで知った。何時もならトップで改札を出る為に急ぎ足で歩く。ところがそんな事にとん着なく、ゆっくり自分に納得行く歩きをしていた。(今の自分はこれだ!)なんて殊更にそんな大層な気持ちはない、が確かに自分を見つめていた。高校生が次から次と追越して行く。負けることを認めなかった私のプライドは人との競争でしかない、自分との深い出会いからするとそんな事は問題ではなかった。別れ際に先生が、「心なしにやれ」と言われた意義を、現実の中で実感した。自分に携えるものを持たず、ただ淡々としていた。
アパートで最初に迎えてくれたのは、近所の四歳を頭に五人の子供たちである。彼等はじっと私を見つめていた。一人が、「どうしょうるん、元気なん?」と言った。彼の家では私の事が会話に上った事があるのだろう。有難いことだ。
部屋に入る。敷きっぱなしらしい蒲団がある。部屋の隅にはほこりが溜まっている。一応全部回って見る。トイレ、そんなに汚くない。風呂、さっき落としたみたい。台所、食事を作った形跡なし。
冷蔵庫、空っぽ。テレビの前に新聞がある。赤ヘル優勝の文字が目に入る。
早速掃除に掛かる。掃除機を出せば狭いアパート、三十分も有れば三、四回は出来るだろう。何故か雑巾を用いる。何回も何回も一拭きをする。きっちり出来て一人ほくそえんだ。
六時を過ぎた。主人は帰って来ない。新聞の呉版を見る。一文字一文字がバッチリ見える。竹原市議会の終日が記されている。(これは本日は飲みだ)と察した。お寿司は無理。買物に出かける。何時もと変らない。
知人に出会う。ヘアースタイルと服の不一致を指摘される。「マァ、いいじゃない!」全く心にひっかからずそう言って別れる。家に帰り又掃除。主人から電話がかかる。
「お寿司は絶対に買って帰る。早く帰るから。」別に腹は立ってないがいつものように一応腹を立てた振りをする。
「十数日振りに帰って来たのに、あっそ! 私なんてどうでもいいのね。いいよ又出ていくから。」
「色々あるんだ。議員のお別れ会をしているからもうちよっと。早く帰るから。」
「早くって何時? 一時? 二時? 冷蔵庫は空っぽだからね。食べる物は無いんだからね。」
何と意地の悪い。ここらは全然以前のまま。第一治す気が無いのだから。(後日この話を先生にしたら、まずい白菜[魔女の悪妻]と呼ばれる羽目になった。)
しかし何時もの迫力はどうしたのだろう。私が何を言っても上機嫌で流している。主人が帰ったのは十二時四十分。私は何時ものように怒った振りをしていたが上機嫌であった。
主人は四日経っても私が何処に行っていたのか聞こうともしない。私は我慢出来ず、
「十数日、家をあけても心配じゃないの? 私なんてどうでもいい訳?」とネチッこく聞いた。
「心配だからあちこち電話を掛けて探したんだ。」
「それで何処へ居たと思ったの?」
「奧(実家)だろう?」
「電話したら居ないって言ったでしょう。」
「居留守を使ってたんだろう?」と言う。ばかばかしくなって来た。もうこの話はしない事にした。
もし本当の事を知っていたら、
「有難うございました。感謝しています。長い間家をあけて済みませんでした。自分を十分見つめることが出来ました。真理を手に入れた訳ではありませんが、心を治める方法は掴んで帰りました。禅とは自己との闘いであり、私のような一見強そうで実は弱の塊、おまけに怒られなければ甘えて行く性格では自分に打ち勝つ事など出来ない。その所をよくよく認識し、再度坐禅に行きたい。その時は場所をはっきり告げて行きますから気持ちよく送り出して下さい。お願いします。」
と言うつもりであった。主人に対して私の初めての格調高い挨拶で・・・・
鼻炎に悩まされ続けた参禅であった。曲がりなりにも主婦である。私の場合は主人に手が掛からず、子供も無く毎日勤める訳でも無い。だから自由な時間を多く持っている。普通の家庭なら余程理解の良い家族でない限り、家を長期あけることは大変無理だと思う。そういう点では私は恵まれている。自分の心ぐらいはっきりさせなければ、私は何をしに生まれて来たのだろう? 人の人生ではないのだから。
『・・・・坐禅と云うは、それほど尊いものである。それは何が故ぞ。真理の表現なればなり。この真意を知らんと欲っせば自ら座して昧わうベし』
真意を味合って死にたいものだ。が、この言葉を何時自分のものに出来るのだろうか?
希道先生、貴重なお時間を費やして頂いて、本当に有難うございました。始まったばかりです。ずっとこれからも厳しい御指導をお願い致します。今までの人生で最も価値ある事、それを得るには先生なしには絶対不可能な事だと思いますから。
奥様、有難うございました。「帰ったら家内が一人でね、ポツンと。女というものは尽くす相手が居ないと有り合わせの物しか食べないのですね。」先生はそう言われました。「申し訳ない事をしました。もう大丈夫ですから海蔵寺ヘお帰り下さい。奥様、怒って居られますかね?」「家内は君が考えている次元には居りませんよ。そんな事は気にしなくて宜しい。」最後までこの言葉に甘えてしまいました。
禅友会の皆様、色々気を遣って頂き申し訳ございませんでした。諸先輩方より倍以上の時間を背やしましたが、到達したところはこの程度です。これからも後について頑張りますから宜しくお願いします。
竜山先生、何も言えません。ただただ深く深く頭を下けるのみです。涙が出て止りません。ただ黙ってじっと見つめて居られたお心が、遠くに見えるような気がします。もし、竜山先生との巡りあいがなかったならば、本当に私の人生は終わって居たかも知れません。有難うございました。
一九八六年十一月二十日
玉桂 巴 合掌
「玉桂 巴」というのは私のペンネームです。これを読まれた方が、興味や憧れ、尊敬の念を抱いて逢われた時、私がいたらないために落胆し法を誤解されるから実名を使うこと罷りならんと言われました。又、先輩諸氏が恥ずかしいだろうからとも言われました。ここに出して下さるのも将来の大なる期待からと、初心者の方に多少の参考になるところもあるからだそうです。今更ながら恥ずかしい思いです。
私は今十年の結婚生活に別れを告げ、美しい竹原の地を遠く離れました。一人出て行くとき自ら永久追放の感じさえするせつない気持ちでした。どぎつい冗談と私自身の適性を求める意見とが、先生や先輩方に最も疎んぜられ大変叱られました。我がまま、忍耐が足りない、つまらぬこだわりがある、すぐ言葉で切り返す、礼儀知らず等、坐禅修行する者はこの反対でなげればならないと、何時も厳しく先生方に叱られました。悲壮感の中で自分の人生を零から選び直そうとする不安は一入で、とても男性方のように強く一直線では走れませんでした。沢山の宿題をかせられそれを我が物にしなければ、私はもう道場へは受け入れて貰えません。今は生きる糧のためと勉強することに懸命です。
今一人暮らしを初めて大きく解放され、男性とは、女性とは、妻とは、主人とは、人間とは、人生とはと、尺きることなく考えさせられています。自分のすねたりひねたり、時に切り返して攻撃したりするようになった原因が良く分かりました。そんな環境に居ると知らぬ間にそれが身について性格になってしまうようです。今は一人として私を知っている人も居ない社会環境の中で、素直に自分を出し切れることが嬉しいのです。その中で密かに努力せよという事だと思っています。
坐禅について一つ思うことは、坐禅をしたら即自分が立派になり性格も変わることなど多くを期待することは、それだけ他に依存しているので矛盾を感じてくるようです。自分に元の原因がありそれを放置して結果だけ坐禅に期待しても無理だというこです。坐禅は確かに偉大なことを教えてくれます。その最大なことは[本当の素直さ]です。坐禅をして立派になるのではなく、坐禅に身も心も預けて無心な素直な心に導かれて行くことにより、自分の中のドロドロした淀みがろ過されて、次第に偽りのない誠実な人に成っていくことこそ坐禅の功徳だと思っています。
それがこだわるクセの元を解かしていき、遂には今一瞬の世界が絶対価値となり信念となり、安心となるのだと思います。上り詰める迄導く自分と、素直に導かれていく自分とが強力に合体して存在することが大切だと思います。結局は努力でしょうか。
坐禅に性格などを云々することは次元が全く違うのです。性格は本人の特徴であり顔や体付きが違うのと同様に、人それぞれに個性があるから面白いのではないでしょうか。只、誠実な心であればどんな性格であっても、それは美しく立派な人であると信じてよいと思います。
坐禅は、ですから初めから只素直に坐禅されることが一番適切だと思いす。心が浄化されていく一番の早道ということです。ここが師の指導と素直と信じることと分かることと安心とが一体になる大切なところだと思います。坐禅に多くを期待するのでしたら、自分の総てを捨ててひたすら坐禅すれば、これは必ず大きな世界に生まれ出られると約束出来ます。勿論師の導きのままにしての話です。私も必ずそうなろうと決心しています。
自分の生活や一般社会の中で坐禅工夫することはとても困難なことです。先輩方の[参禅記]に言われている通りです。生活するために精神が疲れてしまい努力心が大幅に鈍ってやる気が起こらなくなるのです。
もし参禅されるのでしたら、精神が疲れない生活の工夫をしっかり指導してもらうことも大切なことです。つまり[動中の修行方法]です。心の定まりを付けることが出来ることで私も随分救われています。坐禅だけに期待して後の時間である自分を放置していたのでは、坐禅しても何にもならないということです。
誰かもおっしゃっていましたが、「坐禅したことが尊いのではなく、常に今参禅工夫していることが尊いのだ。」という言葉は実に有り難い訓戒で、私もその言葉に励まされています。
参禅は人間性の復活に大きく役立ち、私自身の人生を強く暖かく支えてくれています。今は素直に感謝もざん悔も出来ます。でも本当の安らぎを得られるよう頑張りたいと願っています。
皆様のご健勝とご多幸をお祈りいたします。
合掌
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