山門

はじめに

少林窟道場 聞牌

少林窟道場は道元禅師の流れを汲む曹洞宗に属します。
しかし、禅に曹洞も臨済もありません。
少林窟では達磨大師、馬祖大師、趙州禅師、あるいは日本臨済宗の大応国師・大燈国師・関山国師等の境涯を等しく尊崇し、公案も尊重しながら、只管工夫で修行をしております。
その様子は参禅記、老師の著作等に詳しく記されております。

少林窟道場は飯田欓隠老大師によって、昭和6年、大阪・高槻に創建されました。昭和12年、老大師遷化と共に第三世となられた義光老師によって当地・忠海にあります勝運寺に移され、昭和33年に勝運寺裏手の境内に道場が建立されました。それには、義光老師が広島大学参禅会を指導しておられた関係で、広大の学生・OBの方々のご尽力がありました。そして幾度かの改修を経て、現在に至っております。
現道場主は第五世・井上希道老師です。
決して大きな道場ではなく、あくまでも一箇半箇を打出するために少人数で高密度の修行をする場となっています。

少林窟道場は道元禅師の流れを汲む曹洞宗に属します。
しかし、禅に曹洞も臨済もありません。
少林窟では達磨大師、馬祖大師、趙州禅師、あるいは日本臨済宗の大応国師・大燈国師・関山国師等の境涯を等しく尊崇し、公案も尊重しながら、只管工夫で修行をしております。
その様子は参禅記、老師の著作等に詳しく記されております。

少林窟道場は飯田欓隠老大師によって、昭和6年、大阪・高槻に創建されました。昭和12年、老大師遷化と共に第三世となられた義光老師によって当地・忠海にあります勝運寺に移され、昭和33年に勝運寺裏手の境内に道場が建立されました。それには、義光老師が広島大学参禅会を指導しておられた関係で、広大の学生・OBの方々のご尽力がありました。そして幾度かの改修を経て、現在に至っております。
現道場主は第五世・井上希道老師です。
決して大きな道場ではなく、あくまでも一箇半箇を打出するために少人数で高密度の修行をする場となっています。

禅堂

少林窟道場 禅堂

禅堂(ぜんどう)

元々、大久野島にあった米軍の倉庫を町長のはからいによって寄贈され、禅堂として改造されました。最大で22名坐ることができます。

聖僧様

少林窟道場 聖僧様

聖僧様(しょうそうさま)

欓隠老大師の尊像です。

衆寮玄関

少林窟道場 衆寮玄関(しゅりょうげんかん)

衆寮玄関(しゅりょうげんかん)

ほんの小さな玄関です。しかし、中身はここに掲げてある義光老師筆の額の通り「龍象衆」です。

仏間

少林窟道場 仏間

仏間(ぶつま)

簡素な作りですが、少林窟の祖師方や縁の深かった方々のお位牌をお祭りしてあります。

食堂

少林窟道場 食堂

食堂(しょくどう)

ここは少林窟の極めて重要な修行の場です。真剣に一箸を運び、命懸けの一噛みをする場です。瞬時の油断もなく老師の点検が入り、活きた提唱が繰り広げられます。その様子は、本日の法話で公開されています。公開された法話は、獅子吼に全て収録されています。

海山堂 

少林窟道場 宿坊 海山堂

海山堂(かいさんどう)


参禅者のための宿坊です。21畳の大部屋と8畳の小部屋があります。
ここから眺める瀬戸内海は絶景です。

通身手眼(つうしんしゅがん)

通身手眼

欓隠老大師の書です。 老大師六十九歳の時のものです。

趙州和尚語録提唱(じょうしゅうおしょうごろくていしょうげ )

趙州和尚語録提唱偈

昭和7年、勝運寺にて静養されていた欓隠老大師が「趙州録開莚普説」を撰述されるに先立って
書き留められたものです。

只須息見(ただすべからくけんをやむべし)

只須息見

義光老師の書です。 これは三祖大師「信心銘」究極の一句です。 「只、須(すべか)らく見(けん)を息(や)むべし」と読みます。

関(かん)

関

義光老師の書です。
「一息」は正に少林窟道場の「関」です。