小学四年生頃と聞いております。鉄棒より落ちて尾てい骨を打撲。それが元で病気の問屋の如く人生最大の不幸と言うべき病人になったそうです。爾来無常感に襲われ、常に死の陰に怯えることとなり、父の影響と共に次第に仏道修行へと吸い込まれるように突入していった稀な人生街道の方です。
人それぞれ山あり谷ありで、悩みの無い人など居ないはずです。因縁所生の法とは言えハンディーをもって産まれた人こそ最も気の毒なことです。助けあわなければいけません。それはそれ。
自ら招いた事故とはいえ、大智老尼は毎日が苦痛故に生死を考えてしまう内に、世間に対する一般的な興味や憧れなど無かったようです。不健康から来る不安感は切実な問題で、常にそこから抜け出したいという極めて単純な願望が強かったのでしょう。
何と言っても幸いしたのは父自照居士の存在でした。幼小より仏法に就いて篤と聞いていたことが、成長と共に決定的な決意となり、遂に切実な菩提心となり、実地に坐禅修行することとなったのです。身体的不幸が、却って法の上には幸いしたという皮肉な人生と言うべきでしょうか。
山僧が大智老尼を知った時は、既に大成(大悟)されていましたが、何にも知らない子供は、目前の大智老尼が当たり前でした。特別何かが有った訳ではありませんが、「大法は容易ではないぞ!」と常に両親を初め大人に檄をとばしていたのが印象的です。
勝運寺の日々は欓隠老師の話題が無い日は無く、法談の無い日は無かったのです。陰では大智老尼を「病人」と呼んでいました。ずっと皆が心配し、世話のため隨分難儀をされたことが窺えます。とにかく病気続きだったためか、老尼の部屋は当初強烈な消毒臭がしていましたが、それも次第に消えていきました。不思議にも元気になられたからです。実に活動的で、気迫と行動力から病人とは思えませんでした。だが直ぐ疲れるのか、みんなに能く肩を叩いてもらっていました。勿論遊びたい盛りの山僧も。
薬害によるのでしょうか、身体は思っている以上に脆く、或る時サロンパスをはがすに当たり、「いいか、わしの身体は壊れとるから気をつけてな。ゆっくりと…」との指示が有り、極めて慎重に剥がし、残りの一センチほどをピッとやったら皮膚が着いて剥がれてしまいました。大智老尼は「あ痛!」と一声、暫く痛みを堪えていました。「のう、ワシの身体はこんなんじゃ。今後注意してくれよ。」驚いたのはこっちでした。まさかそれほど脆くなっていたとは。こんなに側近にいながら少しも分かっていない自分を恥じ、且つ心から詫び、以後老尼に一層注意をはらうようになりました。
徹底慈悲の人でした。当時はよく物乞いが到来したものです。そのみすぼらしい姿を見るや、涙して金銭食べ物を渡しながら、「元気を出しなさいよ。」と深い慈愛の言葉をかけ、時には着ていた袢纏を着せたりして、去って行く後ろ姿を合掌して見送っていました。
小学二年生の弟が、手押しポンプで水を汲み上げていた時のことです。井戸は四角な石で囲われていて、そこに上がってポンプを漕いでいました。たまたま老尼が通りかけた一瞬、弟がパッと居なくなったのです。理由は分かりませんが、消えた一瞬、老尼は全速力で井戸に駆け寄り、身を乗り出し井戸底に向かって大声で弟の名を叫び続けました。渾身の叫びでした。落ちたと思われたからです。大声で呼ばれた弟がさっと現れたのを見た瞬間、満面の笑みで、「あゝ良かった!」とひと言。何事も無かったように立ち去りました。
私の父を、「和尚さん」と呼んでいました。座布団を枕にして一休みしていたところへ現れた老尼は、「和尚さん!人が尻を据える座布団へ、大事な頭を乗せるもんじゃない。不見識な。ほれ!」と言って懸けてあったタオルをサッと取って、父の頭をもたげるや手際よく座布団の上に敷き、そっと頭を下ろして跡形無く消え去りました。
雪に覆われたお地蔵さんをテレビで放映していた時のことです。有名なお寺のそこのご住職が竹箒でお地蔵さんの頭や顔の雪を払い除けているのを見て、「なんちゅう心無いことをするんじゃ! 仏心は無いのか! 住職がそんなことでどうする!お前、あれを能く見ておけ。ああ言うのを法が無いと言うんじゃ! 真心が有ったらあんな事はできんものじゃ。テレビがああゆう心無いことを見せちゃいかん! 崇高心や尊敬心を妨げる悪影響と言うことが何故分からんのかのう! みんなが困る世の中になるのに…」
夏の蚊は皆の嫌われ者です。特に昔は凄まじいものでした。そんな時期に暑いからとスカートをまくり上げて、鍬で庭の草削りをしていた老尼の両足全体が、ヤブ蚊にやられてゴーヤのようにボコボコに腫れ上がっていました。それを見たみんなは、徹して自己無き働きの凄まじさに改めて敬意を抱きました。何事をするにも全身全挙、余念なき様子は誰の目にも明らかでした。
何事も実にきっぱりとしていて、言うことも、することも、させることも何のためらいも無く、明らかに前後際断底であり、超然と道を行じて一点の影無しでした。道心の無い人はとても就いていけるものではありません。手紙の返事はすぐ書き、すぐ出しに行かされました。思い立ったら直ちに実行です。山僧には実にいい修行でした。
欓老直伝の菩提心は、当時の立川浄州居士をはじめ、多くの諸学人を能く啓発しました。鋭くて直説な説法は微塵も女性を感じさせるものがなく、まだ広大生時分の立川居士は、義光老師に、「老尼は本当に女ですか?」とぬけぬけと聞いたそうです。義光老師は即座に、「確かに女だ。儂が確かめて居る」と言われたそうです。欓隠老師は、「大智は野生だ、野生だと」能くと言われていたそうです。全く同感です。
現在道場が在る処は、もと栗林でした。その頃の立川さんは、栗の木と木の間に竹を渡し、それにムシロを懸けて雨露を凌ぎ、托鉢に出ては猛烈な独坐の日々だったと大勢より聞いています。世界的な平和運動家の森滝一郎博士や時の羽白町長(禅堂寄付者)等の歴々がそれを見るや、「もう少林窟道場は出来ているじゃないですか!」と感嘆那一声されたそうです。この一人の猛烈人が基と成り、遂に衆を感応道交せしめて今の少林窟道場となったのですが、みな大智老尼の菩提心がそうさせたものです。
ある時こんなことがありました。当時は中庭に小さな池がありました。春先はものすごい蛙の鳴き声です。老尼はそのため眠られず、それを知った立川さんは、一晩中竹棹で水面を叩き、蛙の鳴き声を止めさせていました。これをして彼の菩提心と人柄を察するに充分でしょう。こうした彼のお陰で少林窟道場ができたのです。まさに菩提心の結晶です。道場の現在の小さな山門は、立川さんの作品です。何時までも菩提心の象徴として伝えていきたいものです。
立川さんは、後山僧の元で出家し、現在(2017・八十六才)は立派な老師となり、地元の高松市で若者に剣道と坐禅を指導されています。義光老師・大智老尼に最も信頼された大古参であり、[少林窟法語]を毎月二十年以上出版された奇特人です。
又道場護持に最も力を注ぎ、両師を助け、正法興隆に尽瘁された稀な禅人です。
合 掌
『日本女性人名事典』に(日本図書センター刊行119ページ)に次のようにある。
井上大智
明治三十五年(1902)一月二十三日~昭和五十五年(1984)二月二十五日。昭和期の宗教家。山口県岩国に生まれる。
山口県の政治家であり、在家の禅者でもあった島田軍吉・まさの二女。幼名チエ。幼少時から父の仏教観の影響を強く受ける。
十八歳で心臓脚気を患い、無常感から飯田欓隠老師(少林窟道場御開山)に師事し坐禅修行に専念。二十歳の頃から病床の人となる。
二十四の時、病床にありながら師の仲立により同門の師家、井上義光(少林窟道場三代)の元へ担架で輿入れ結婚。
以後肋膜炎、腰椎カリエス、仙骨カリエス、膀胱結核、腎臓炎、出血性子宮内膜炎、坐骨神経痛、仙骨麻痺、急性肺炎、脳内出血、子宮がん等にかかり五十余年間の闘病生活を送る。
二十七歳の時、病床で心の本が空であることを悟り、以後死線のままに安住する。二十八歳の時、三度目の死の宣告を受けて出家、以後有髮の尼僧の生涯を送る。
三十四歳の年、死を決して修行し、ついに仏教の真髄を体得。
「心の正体を極めた時、(見性成仏)、総てに拘らない力が備わり、一切が浄化され光明となる」悲願の世界を確立。その宗旨にかかわらない単刀直入の簡潔な教えが人々の心をとらえた。
六十六歳で夫と死別。少林窟道場四代となって多くの門下を育成。社会的影響力を持った。 八十三歳で死没。
著書『解脱への道 』『修行の根本』『少林窟法語』『三祖大師信心銘提唱』
井上大智老尼著 『解脱への道』より抜粋