洞天義光老大師
形ち正しければ影正し。身体を真っ直ぐに正しく座り、次に、息を吸い込み、息を出す。
只この呼吸を正念に、一心不乱に専念することを「息念の法」と言う。
息を出す時は、只出すばかり。吸う時は、只吸うばかり。
吸うた息を出すと考えることなかれ。
吸うは、只吸うのみである。出す時は、只出すのみである。
吸うたものを出すと関連して考える癖が不是なり。
無明の根本なり。我見なり。迷いなり。
吸う時は吸うのみの全挙である。出す時は出すのみの全挙である。
出す時は出す時の法位である。
吸う時は吸うの法位である。
各々その位を命懸けで護持すベし。
これ仏祖正伝解脱の法なり。菩提なり。何が故ぞ。
すでに、万事前後際断解脱底にして、独尊仏、如来なればなり。そもそも、息念の法は大自然の法則にして、人々勝手のものにあらざるなり。
この呼吸、もし自分の呼吸なれば自由に止めることが出来るが如何。そは不可能なり。
大自然の法則は、何ものにも偏らない普遍の真理なり。
何ものも犯すことなきが故にこれを戒という。
何ものにも関わりなきが故にこれを解脱という。
何人も皆四六時中これを用いて自在なるが故に、これを光明という。
絶大である。無上である。無我である。
永遠なり。真理なり。救いなり。
これ釈尊の消息である。祖師の境界である。
我等が心の本来の様子である。これをして思う時、人々の呼吸といえども、本来小さな私の呼吸ではないことを知るべし。
これはこれ人々の呼吸を通して、大自然の本来の消息に目覚める息念の法である。
我等本来大自然の真理の表徴である。
古来より何人かその人にあらざる。
尊ぶべし、敬うべし。
愛して勤めるべし。これに目覚めるを脱落とも見性ともいう。
永遠不滅の大生命が自覚され、大真理(悟)に目覚めるの法である。
今一息に徹っするのみ。
何の修証をか用いん。
何れの時をか待たん。
諸人、道の為にやらずんばあるベからず。
もし或いは、この正道の一大事因縁を放過せば、恨み千歳に渡らん。
光陰空しく過ぐ。
日早くも募れなんとす。
たがための人生ぞや。
救いは、只汝が努力にあるのみ。
至祷々々
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