只管について (第四巻七号 昭和三十六年七月)
この度は只管について書いてみます。少しむずかしいと思いますが・・・たまには、堅いものも又味があることかも知れません。さて只管という言葉は、禅者たる人は誰も口にするものですが、真実の只管となると、なかなか知る人は稀れであります。
ところで臨済禅は、公案を主体とし、曹洞禅は、只管打坐を主体としております。ここに只管と云うことに就いて思い出しのままを書いてみましょう。
只管とは「悟り」ということ或は「タダ」ということ、或は「そえもののない」こと、或は「余物をまじえぬこと」等でありますから、これから推して考えてみて頂きますとだいたい、真相はお察しがつくと思います。元来、只管の本質は純の純たるもので、口の葉には表わせないものでありますが、併し「らく書きすなと、らく書きする」という言葉もあれば、ペンにまかせて・・・。
白隠禅師は、衆生本来仏なり、水と氷の如くにて、水をはなれて氷なく、衆生の外に仏なし、と申されていられますが、道元禅師は、修せざるには現れず、証せざるには得ることなし、と申されていられます。
このように、この只管も、修せざるには現れず、証せざるには得ることなしでありますから、只「シカン」と申しましても、この只管の中に、目的あり手段あり結果ありで、この三ツをかねた只管であると云うことも、考えてみなければなりません。と申しますのは、この三つがよく、混線して正法をあやまらしめるからであります。否、混線されてみえるのです。ですから、ここのところは大事をとって読んで頂きたいと思います。
そこで、この「シカン」を三つに分けて、お話しを進めてみましょう。
往々にして、平等面に立って、この只管を悪平等視させることがあります。只管そのものには、罪はないのでありますが、見る方が、「こんせん」して平等の一面に見て行くのであります。この一面観に陥るが故に悪と名を付けて、区別されるのであります。
悟りの一刹那に、煩悩がそのまま菩提といえるのであって、始めから、煩悩も菩提も、別物ではない、というわけにはまいりません。そこで只管を明らかに区別してみせねばならぬのであります。
悟りの開けない時は、只管たらんとして「目的」におかれるのでありますが、併し、悟りに気が付いても、やはり只管を練って行くのでありますから、自然に手段となります。そうして真実の悟りに入りますと、只管、其の物が「悟り」となるので、ここでは、只管ということも剰語となって、不要となります。即ち大悟と言う、「結果」が生まれるのであります。
只管もここまでこないと、本当の只管の味合いはわかりません。
丸ごて (第四巻八号 昭和三十六年八月)
坐禅をなさらぬ方に、只管々々と申しましても、一寸不理解と思いますが、要するに、丸ごてのことと思われましたらよろしいでしょう。食う時は、食う丸ごて、歩く時は、歩く丸ごて、見る時は、見る丸ごて。この自然の姿に向かって何の言句かあらん。しかるを、何か云いたいこと、或は思慮を生ずること、或は感情に引かれること等、いろいろの問題を生じます。この時は大いに反省して行くことが修行中の大切なところです。
本来丸ごての物には、手は着かぬものです。ですから気を付けて修行することが、これまた要点なのであります。
そうしないと、いつまで経ってもらちは明きません。
さて或る人は云うでしょう。感情なしに人生は生きて行かれないと。なるほど、人は感情の器ですからそのとおりです。
そこで、この感情の性体を知って、自由自在に使い得る力が出来るようになるのが、坐禅の功徳です。この性体を知らぬ間は、実は感情に使われているのであります。そこで先ず感情その物の性体を一度は是非究めておく必要があります。そうしないと、人生を汚すばかりでなく、自分自身を汚し、万劫の恨を引くことになるからであります。
そこでこの性体を極めますのに付いては、しばらく世の中の道行きとは方向が違います。
さてどこが違うのでしょうか・・・それは感情そのものに食いこんで行くのと、感情に流されてホンローされて行くのとの違いです。こうして違ったコースが、只一念より生ずるのですから、この一念を右か左か、見まもって行くところに、修行の重点がおかれることになります。
ミナ足元がぬけているのではないでしょうか。脚下を照顧せよと、いずれの禅門にも書き出してあります。各々の胸に張り付けておくと安心です。さりとて只張り付けておくのみでは、意味がありません。呵々。
そうして一心に只管を練ってまいりますと、心の結ばれが取れて、いつの間にか本当の仏様になるのであります。
実は元々、ホドケているのを自覚するので、ホトケ様と云うのであって、「カタマリ」を認めるのとは、ぜんぜんおもむきが違います。
現在の宗教が誤っているのは、この「根本」が間違っているのです。心がホドケルのではなくして、ますます一つの霊々昭々たる一物を求めさしている。たとえば、仏を認め、神を認め、観音様を認め、とにかく、いろいろな偶像物を認めさし、求めさしている。
真実の仏法からみると、実に噴飯ものです。只今では禅者の中にかかる人が多いのです。末法とは云え実に歎かわしいことです。無我を認めますと、有我になることがおわかりになると、道理だけでも、うなずけることだと思います。
悟りを大中小と三ツに分けて (第四巻九号 昭和三十六年九月)
先には、只管を三ツに分けてお話しをいたしましたが、ここでは又、悟りを大中小と三ツに分けて、お話しを進めます。
小悟の者は・・・
要するに、只管に至り得た人、即ち、自己を忘じて仏地の世界に入った人であります。
一度はこの仏地(平等)に至らなければならぬと同時に、ここに腰をかけてはなりません。これは真実の仏の世界に行く道中であります。ですからこれで目的を達したように思われてはなりません。
とかくここのところを悟りの世界だと勝手に、きめこんで腰をすえたがるものです。この平等地に食いついてしまいますと、平等に偏して、禅天魔のそしりを受けます。一切の物も、人も平等にみて悟りの一枚物となるのです。これを悪平等と申すのです。
ここを、トウ隠老大師は、うたた悟ればうたた捨てよと、やかましく云われているところです。
なかなかこれが捨てがたいのであります。昔も今も悟ったと云う人は、この程度の者が多いようです。
悟ったと、一つの物を、みとめますと返ってこれが障害物となっていることが、本人にはなかなかわかりません。以上の人からみますと、実によくみえるのです。
悟りだちは天狗になっていますが、おちついてまいりますと、だんだん不満の点が現れて来ます。こじつけて法理で満足してみましても、何となく法の如くなれぬ日常をどうすることも出来ません。そこで自己反省をいたします方は、より大きく法に生きることが出来るのです。
たとえ、悟りといえども持っている間はそれが重荷となっていることを知らなければなりません。
いなずまに 悟らぬ人の 尊さよ
それでは悟りに気が付いたよろこびはどこにあるかと申しますと、この気付いた悟り(只管)を手段として行くところに尊さ、よろこびがあるのです。ようするに只管がらくになってくるのです。
中悟の者は・・・
この悟りを手段として、一切行住坐臥の中に只管を練って行くのであります。
要するに、行住坐臥の中に在って行住坐臥たらんとして練って行く。この道中が、なかなかたやすいようで実はむつかしいのであります。
それはどういうわけかと申しますと、悟りの光が出て来ては、邪魔をします。そうして腰を下して、時間を空費させます。この悟りの光が何となく、満足感を与えるのです。
そうかと云って、満足ができるような出来ないような、何となく物足りない。それは悟りを思うと満足感があるが、さて、日常生活を思うと、しっくりしないものがある。これが即ち日常生活と悟りとが一つでない証拠であります。本当の悟りは別々ではありません。
自己反省ほどうるわしきものはない (第四巻十号 昭和三十六年十月)
悟りと日常生活がしっくりしない間は完全なものでないと心得て、悟りを捨ててやり直しです。捨てようがないと、理屈が出てくるこの感情の未だ残っていることを知らなければなりません。この捨てるヒケツがなっとくできましたら幸せです。そうしてどこまでも、只管で一切をぶち切り、ぶち切り、練って行くのです。山上山ありとして、古人が戒めて大悟に至らしめるべく、悪ラツの手段を下すところであります。
この中悟の人は法理が明らかなために、兎角、口釈を云いたがるものです。そのため、只管を練ることをなおざりにします。そこで何年間も或は何十年も法理と遊んでいつの間にか名利の念が強くなって、正法をなめてくるのであります。こうした状態は自分自身には分からないのです。げに恐ろしきものは増上慢であります。
せっかく悟ってみても、只管を練ることを知らないと徒らに法我見が強くなって、救い難い人となるのであります。
そこで小悟に安住せず、大菩提心を養って行くのであります。この自覚を、うながす為に、山上なお山ありと、不二山より新高山があるぞ、ヒマラヤ山があるぞと、より高き向上に進ませる正師の必要を知らなければなりません。
父は打ち 母は抱いて 悲しめば
変わる心と 子やおもいけん
シカッタリ、ホメタリ、スカシタリ。師たる者の苦心も又難いかな。これも時代の流れでしょうか。昔は学人は、道を求むるに切なるがために、万難を排してより悪らつなる師を求めて苦心したものです。今日では、どうでしょうか・・・。
学人の気嫌を取りつつ行くような有様ではないでしょうか。学人の低下か、師家の低下か。如何に時代とは云え、自己の真理を覚醒してくれる師に対する、学人の尊意如何なものにや。
正法を軽んずる人は軽い法しか入らない、重く見る人は重い法を得るなりと古人もいわれているように、元来法には軽重はないのであります。只人々の心に依って軽重が生ずるのみであります。ですから心得次第では、いつでも自由に転ずることが出来ます。そこで自己反省ほどうるわしきものはないと、トウ隠老大師もよく申されていられました。
よくよく反省して、途中の道草をとらぬように注意をと願う次第であります。
さて大悟の者は・・・
只管を只管たらしめて行く、これを「工夫の無い工夫」と申します。大成した人は別に工夫なしと申しますが・・・。
ここに至るまでは、「工夫無き工夫」を一心不乱に間断なくやりよりますと、自から前後裁断され、常に只管の丸ごての工夫となって、いやでも「即念」たらざるを得ません。この即念の工夫は、よういな業ではありません。古人も刻苦の暁き、ここに至ることであって遊び半分の工夫では夢にだも及ばぬことです。
大悟 (第四巻十一号 昭和三十六年十一月)
生きながら生死を解脱するのですから、大変な努力がいるのであります。併し、すでに即念の工夫に達したとすれば、この無風流を一入の勇気をもって、昼夜間断なく遂行していく。ここに至ると最早や、世の中の一切には、動ずることはありません。このテコでも動かぬ不動心が最後の真の手だと信じて精進されることです。こうなれば悟る悟らぬと云う感情は全然はいらない。否必要としない。何か形容詞がほしいが、いうべき何ものもなくあえていえば、言詮不及、意路不到とや、いうべきか。とにかくこの境界を、タダタダ一心不乱に練っていると、外境より自然に模様されて、自覚さるべき、一大事に接するのであります。これを大悟と申すのです。
これは決して作為的なものではありません。ここを「只管を以って只管を破った人」、即ち結果ということになるのです。
このように、大中小と悟りを区別してみましたが、人々の因縁に依っては、一超直入如来地に、一足飛びに至る者もあるのですから、この只管を「是非せず」に一心に練られることをおすすめします。
そこで、達磨大師も、直に其の心を指して、見性成仏させるのだよと、申されたのであります。とにかく、百練千鍛のうちに、只管が只管を教えてくれます。
ここに注意すべきことは、智解を以って只管(悟)をおくそくすることです。真実のシカンの世界には、智解は許さないことは、くどくどしく申し上げましたことで、すでにお分かりと思います。
道理の只管は、結局道理であって、仏道とはいえません。併し真実の只管に入る前階級として見ることも出来るのでありますから、ムゲにも出来ぬところもありますが、要するに智解を以って足れりとすることは、真実の仏法とは縁遠いものとなりますから、よくよく注意しなければなりません。
ところで、大事なことを、忘れておりましたので反復して、大悟の機を書くことにいたします。ここに申す機はつまり外境のことで、人々の因縁に依っていろいろありますが、眼で悟る人もあれば、耳で悟る人もあり、鼻で悟った人もあり、五官器のそれぞれの縁にふれてミナ悟るのでありますから、機の縁も実に無量であれば、これときめることは出来ないのですから、決して手ごしらえの気持ちを持ってはだめなのです。
道元禅師も、自己を運んで悟りとするのは迷いである。万法来って我れを証するを悟りとなすとあります。とかく自分の方より智恵を以ってきめたがるものです。
悟りの世界をきかされることも、聞くことも妙なことになりはしませんか。
チラチラ悟りの光を振り廻すと、学人は悟りたい一念であるから、もっともらしく思えて、つられて行くものです。
この何をか言い、この何をか示さんとするか、いとあやしきものにこそ。