参禅記 序

 今日各地に禅会があり国際的に禅ブームが叫ばれている。まことに時節因縁を得て、大いに喜ぶべき現象と言ってよいであろう。しかしそうなって来た背景を取り上げてみると、致し方ない事ながらなし崩しに人間破壊が進んで来ていることは危倶して余りある。
 大変物質文明が進み、人間が生きていく上では一部の国を除いて言えば、物に不自由をし、その為に大変な忍耐と努力が必要だということが無くなったばかりでなく、飽食と無駄使いに明け暮れている。人間生きていく基盤が切実な努力無しに得られると、生きている事の実在感が薄れていく。実在感は汗する意義を与え、感謝や喜びと知足安住をもたらし、もったいないと心から思う人間本来の尊責性を培い育んでくれる。しかし、貧すれば貪するの格言もあり、衣食足って礼節を知るの例えもある。その為に人類はずっと努力をし物を発展させて来たお陰で、生きるために命をすり減らす苦労からは有難くも開放された。その点から言うなら今日は夢の園であり喜びと感謝で身に余る感激の日々でなくて何であろう。[知足の者は貧しといえどもしかも富めり、不知足の者は富めりといえどもしかも貧し。]と釈尊はのたまえり。
 とにかくこうして生活を支える総てが発達して不便を便にし、苦痛を楽にし、努力や忍耐を不用にしてきた。その事が人類発展の目的であるかのように追究して賛美と協力を惜しまなかった。が、その結果の今日、溢れる物の中で感謝と公共心なき生活に明け暮れている一方、社会での仕事となると凌ぎを削って銃弾なき戦いのために心身を極限まで疲労させている。そのことが将来にとっては極めて危険千万なことなのである。家庭にしろ学校にしろ、社会全般健全な精神と必要な生活文化を育んでくれる土壌を破壊しつづけているからで、その将来は高い代償をもってしても購うことは出来ないだろう。今や平静をよそおってはいるが皆発達病ハイテク病の前で危惧しおろつくばかりである。自信を失い感謝を忘れ、清らかな使命感や正義感は通じなくなり、秩序や公益協力をもたらさなくなってきた部分も実に大きい。人間としての健全な情操や感性が喪失して、自己自身を支えていく心の基盤が破壊されつつあるからだ。この精神の退廃こそは今日の世界を動かしている先進国の抱く共通した深い悩みである。
 精神の復活は人間性の回復である。総てが瞬時にして全地球に知れ渡る今日、世界は一つの自覚に高まりつつあり、今日の報道文明が平和の橋をかけてくれたことは最大の功績である。こんな時我見執着、小心高慢なイデオロギーや排他的或いは因果を廃無した宗教等に固執して、他を非難排斥するの愚は、今日ここに至って平和と進歩を破壊する本元であると言わねばならない。即ち、精神の低俗性が時代遅れのイデオロギー等に固執させ、その成長と発展統合を疎外していることは言うまでもない。私達の心はこうした思想に侵され、物に侵され、侵された人によって更に侵されて行く現代の日々の有様である。
 文明の発達は破壊を繰り返しながら人類が続く限り続けられるであろうし、それに対応していかざるを得ない中で生活していくために、人間性を不本意ながら重要視できない日々をずっと送ることを余儀無くされて心は殺伐としていく。とにかく心の安定が崩れた時、即自信を失う。同時に信頼し尊敬し感謝するという精神の総合共有性、無限一体性である善なる輝き、人間本来の徳性を喪失させてしまう精神の決定的様子がある。だからこうした環境にしてしまうと心は真善美愛勇義等にもとずいて行為するということが出来なくなる。これは美しき共存の不可欠な条件故に、これを失うと自我に翻弄されて共存は果てしなき戦いへと繋がっていく道となるのである。即ち、人様に安心と喜びを与え合うことこそ真の共存を可能にし拡大していくことなのであるが、根本のその精神を破壊したところには、他の健全なる存在を願い祈ることは西から太陽を揚げるより困難なことで、全地球の人為的悪は総てここより生じている。こうした今日の発達性人間不在症現代病は既に慢性化してしまっていることに一人一人が危機を感じなければならない。内面の根本的な問題だけに、政治や一般教育では何の力にも解決にもならないところにこの種の人間破壊の無気味さがある。
 従って精神の復活と高揚は、何時の時代にも最も重きをおいて求められ、総ての文化や教育よりも重大視し優先して健全な世界であるために、そして健全な共存のために追求されなければならない。そこにしか安らぎの人生はないからである。人生を真剣に考えると、誰もが一様にそこへ行き着く。即ち、精神の混濁は自我、我見によるもので、そのために無明となり苦しみとなっているのである。そのことを自覚した人は、その解決の拠り所を宗教に求めるであろう。今日世界的に[禅]が脚光を浴び[坐禅]が組まれようとしている背景には、こうした著しい現代汚染によって自我・我見が増幅され人間不信と不安感から、精神の完全存在の追求へと高まってきていることはまことに悦ばしいことである。更には、自分の避けられない現実に対し積極的に人生の課題として、日常そのものを満足と生き甲斐のある境地、そんな絶対の世界を求める人も大勢居る筈である。その早道として[禅]に着目しそれを行ずることは、まことに時節を得、当を得たと言わざるを得ない。
 宗教は意識以前の無限絶対の体得、つまり自我を破り大自然の真理に目覚めることにある。それは心そのものを知るということである。心そのものは本来解脱した自由な世界であり、現実このまま是でもなく非でもなくして、かけがえのない自他不二の充足感をもたらす折り紙付きの境地である。それを体得し大安心をもたらすのが仏教であり禅であり宗教の本旨である。
 だから[坐禅は菩提を究尽するの修証]でなければならぬ。真実に修し、純一になった時自然に自覚すべき様子がある。修証の消息である。今日その目的の実を上げる指導と実践が行われているかどうかは大いに疑問が付いて回る。その人に救いの導きを託して真剣に努力している人にとっては、信頼と尊敬を注ぎ込んでのことだけに、確かな参禅法でなければいよいよ迷わせ苦しめるばかりであり罪作りである。
 禅とは何か? 仏法とは何か? 解説とは何か? それを体得する手立ては何か? 何処へどのように着目し努力すればよいか? そう努力しているとどのようになって行くか?
 [禅]を志す誰もが真っ先に知りたい疑問である。ただ無心に読めばそれが分かる。言っておくが、読んで分かったと思う事は何処までも想像の世界、虚像の代物に過ぎないということだ。
とにかくこれは実践するための道しるべであり現実的な方法であって、理解出来たからこれで禅が分かった、などと思う大それた自惚れは、絶対に進歩することが出来ない事を言明して努力に供したい。とにかく道理で分かったとする世界と、その物と直接出会って納得した体得の世界とは天地の違いがあり、前者では自分の一念の始末を付けることは、未来永劫絶対に出来ないということを良く理解して、真実の心の体得に努力することを請い願うものである。道元禅師日く、[参禅はすベからく実参なるべし。悟はすべからく実悟なるベし。]と。
 蓋し、よく読みよく解し、深く決断して事に当たれば、必ず本来の自己に出会い、三世の諸仏祖師方の言われていることが嘘でなかったことを自覚するであろう。この一事、たった自己一人の解脱が全世界、全人類、全苦悩を解決付ける唯一の早道なのである。これ釈尊の生命であり悲願である。後は人々の努力と因縁の次第に総てが掛かっていて、他に依る何物もないという事を知っておくべきであろう。

昭和六十二年十一月十五日

井上希道 識す


序に次ぐ

 古来禅書は汗牛充棟も啻ならざるに、近時尚出版が盛況である。即ち、先人の語録、問答、行状記等々の再版、学者或いは老師と称する者の解説、提唱、随想等々が続々刊行さる。これに加うるに、講話、提唱会が世人を惹きつけ、甚だしきは僧堂に於いて、付け足しの一日三十分坐褝会の如きものが盛んに行われている。世は乱世、心の平安と救いを求める大衆の心の叫びは高い。仏法の盛んなるというべき乎。
 大堂伽藍の甍が聳立する京洛に據る褝の古刹は優れた書画骨董を秘蔵し、各々その庭園の結構を誇る。先人の遺産賞すべしと雖も、之を以て美術展覧会並みの拝観料を徴収して観光客を招き入れる。住人は云う、「カメラを掲げて雑踏に汗する観光客は宗教心を以て蝟集する者だ」と。乃ち、卑怪な語を弄して先哲偉人の遺跡を示し、坐して金銭を貪る。鳴呼、先人血涙学道の古刹今にして観光名所に堕すか。彼等の懐中に入る莫大なる大衆の浄財、その額果たして幾許なるや、京童の騒噂の的として恰好である。
 また市井に風噂が喧しい。観光古刹に住する僧形の輩は、薄暮に乗じて俗衣に扮装し、車を駆って紅燈の巷に直行する。やおら嚢中より詐鬘を取り出し頭頂に着して俗衆に伍す。大燈国師が五条橋下に潜伏行道の清風を夢にだも欽慕することなく、唯、一休の風狂に擬して恥じず。乃ち、美妓を擁して酒肉に淫す。之もまた法にして闊達自在、日常に嫌う底の法なしと。これぞ禅者の策略、活溌々地の風光か。これもまた仏法興隆と云う乎。世の大方をして云わしむれば、これらの身は僧形にして俗の俗たる下根の者なり。仏法の総府たる禅門に於いて、大寺院の主に果たしてこの罪を免るゝの師幾人かある。
 古来傑出したる褝者は山間僻地の茅屋にあって、粉骨砕身我が身を忘ず。沙門道元は挙揚する。楊岐会褝師云く、「楊岐たちまち住して屋壁疎なり、満床盡く布く雪の真珠、うなじを縮却して暗に嗟吁く、良久して云く、翻て憶う古人樹下の居」と。龍牙云く、「学道は先ず須く且く貧を学ぶべし、貧を学して貧の後ち道方に親し」と。信州飯山の草庵に住すること四十年、正受老人遂に一箇の真人白隠慧鶴を打出して臨済の面目を保任し、真風まさに地に落ちんとするを振興せらる。これ道人の亀鑑にして他に何をか求む。
 芸州忠海に一陋屋あり、名付けて[少林窟道場]という。五百年不出世の巨匠欓隠文敬大和尚の余燼を保って絶妙の褝風を鼓吹す。市井凡俗の道心ある徒相集い、希道和尚が悪辣の拳槌下に道を求む。今日今時ばかりと、只管打坐、現成公案を以て仏法の真底に徹せんことを期す。これぞ奇特にして仏法の盛事なりと云うべし。悲涙禁じ難く、堂奥より跳出して参拝の真風を高揚し南針を四界に垂れんと、茲に一本上梓さる。題するに[禅はこうするのだ]。読む者の心胆を抉り、忽ち陰翳を除去して、眼睛裡に一陣の凉風を生ずる。道は近きにあり。唯、志の至ると然らざるによるのみ。
 この末世に仏法未だ廃れずと云う可き乎。敢えて江湖の人士に披見を薦めて、荒廃の人心再省三思を望むの情切なるものがある。精読以て参禅の指針詳らかならずんば、直に走って師の棒下に参じ、心頭滅却の痛快を得るのみならん乎。

  昭和六十三年如月中日

洛北住人 望叡軒主 記