慈師を偲びて
『井上義光老師語録』後記
弟子 井 上 希 道
略歴と重複しますが、心を通わせて成文化すると又伝わりやすいものです。一層の親しき感もあろうかと。法友諸兄のご一読を乞う次第です。
義光老大師は、明治十六年 広島県に属する瀬戸内の島・生口島(西日光の耕三寺や平山郁夫画伯美術館在)の長光寺にて出生され、二十歳の時、日露戦争に従軍し、金鵄勲章の功勳を上げられました。二十代の後半、曹洞宗大学(現・駒澤大学)の学徒となり、且つ長光寺住職の責に就かれながら、更に三十代前半、東洋大学の学席を深く温め、絶する苦学を見事克服されました。往時の事情を拝聴致す因み、山僧全毛の逆立つを禁じ得ず、部屋に下がって号泣。今や篤き想い出です。
当時ひと年取って二大学を修する如きは、稀有なる向学心と意志と情熱の人なればこそ。老大師をして始めて可と成すに堪えん。
この間に、浅野斧山老師、森田悟由禅師、北野玄峰老師等の諸大徳に参じられ、或る全国布教師大会に於いて優勝されたのが縁となり、呉鎭守府軍隊布教師となられました。
大正十二年、四十一歳の時、忠海・勝運寺に転住されるや、広島・国泰寺僧堂の後堂となられ、九年間務められました。この時、講師として飯田トウ隠老大師、原田祖岳老師や実弟井上義衍老師等を迎えられ正法布衍に尽力されました。将にこの時、義光老師の碧巌の提唱を聞かれたトウ老は密かに是れを制せられ、直ちに『碧巌集』の提唱編纂を開始されたのです。古今未曾有の『碧巌集提唱録』はこうして誕生したのです。是の事山僧義光老師より親しく聞取したものです。
トウ隠老大師は、この時既に仏教学者の島田自照居士と兄弟杯を交わした間柄であったため、参禅熱烈な自照居士の、是れ又親勝りの参禅熱心な娘智恵二十四才、後の大智老尼を後添えとして仲人されました。大正十五年、四十四才の時でした。智恵は生死の境に居るとさえ言われた重病人で、担架に担がれての入山でした。義光老師には先妻の子四人が居て、病弱であり大勢の中での慣れない勝運寺生活は、智恵にとっては可成り厳しい環境であったはずです。
この時世話のため看病人として一人の娘が随行して来ました。老尼の妹、若干十六才の天地(あち)です。後に天地は義光老師の一番下の弟、井上干兮(かんけい)と結婚しました。これが不肖希道の両親です。従って、義光老師夫妻と私の両親は共に兄弟姉妹という関係です。更に面白いことに、義光老師の次男 素由師(現北海道釧路市光禅寺東堂)は私の父の弟子となり、私が義光老師の弟子となって、共に子供が叔父を師としたことです。
昭和二年、四十六才の時、広島文理大の講師になられ、ラジオ等にも出て大乗精神を布衍されました。
昭和六年、義光老師四十九歳の時、欓老高槻に少林窟道場を開単されるや、国泰寺後堂位及び文理大講師を打ち捨てて、老大師の会下に随侍研参されたのです。
不幸にして老大師は開単半年にして病に倒れられ、後席を二世伊牟田欓文老師に任せて加療専念されることになりました。欓老は二大弟子を仕上げる為もあって、義光老師と共に勝運寺へ養生を名目に入られました。
「欓老は、ここは良いなあ。要る本が沢山あって。ちょっと拝借。とか言って、ワシの本を遠慮無しに提げていったわい」と笑いながら言われる義光老師。養生は元看護婦の老尼ですから勿論心から老大師に尽くされつつ、熱烈に参師問法されたようです。欓老は二大弟子を見守りながら執筆に専念されて、「仏祖正伝禅戒抄提唱」「證道歌提唱」「般若心経恁麼来」「普勧坐禅儀一茎草」を次々に著されました。「碧巖集提唱録」もここで編集し、昭和七年九月刊行。欓老にとって最も安定した環境で、一番重要な執筆が出来た二年間だったようです。
勝運寺開闢三百五十年祭の法縁に因み、在山中の老大師は次の香語を詠まれました。
香 語
臨済曹洞百花の天
大半は凋落し其の伝を失す
勝運幸いに義光の在る有り
続焔三百五十年
普
石女舞いを成す長寿の曲
木人唱い起す太平の歌
飯田欓隠九拝
昭和十二年、欓隠老大師遷化に際し、義光老師をして少林窟道場第三世に委嘱されました。老師五十五歳の秋でした。ところが魔党平井海庵居士一派の排斥に合い、正法の世界に有らずと見限って少林窟道場を退いたのです。(今尚、飯田欓隠遺徳顕章会、芦屋市山芦屋町26‐5、に当時義光老師排斥のための怪文書が陳列されています)。以後、老師は勝運寺にて聖胎長養に務められ、戦中戦後の苦難の時代を専ら大修行底の日々として法悦円満を恣にされていました。
曖昧な記憶から言えば、あの戦後困窮の極、修行僧もよく出入りし、教師も三々五々老師を訪っていました。修行者はともかく、教育者は思想の急展開と価値観の変容による不確定不信感からだったようです。
両親はどんな場合も出家の修行者を第一として、困窮の最中も慈しんでいました。子供ながらも、我が両親は法のためとは言えよく尽くすなと感心したものです。一番多かったのは、矢張り原田門下の発心寺修行者、継いで実弟の井上義衍老師門下でした。こうしてみると、真箇の求道者を育てている叢林、道場、師家の様子が居ながらにして良く分かりました。又、師家の内容も瞭然たるものでした。
その裏側にいた我々は、過酷な空腹を支えるに何らの手段無き情勢でしたが、食事の度にしてくれる、父の尽きない法の話しと書道の話しと、母の知的ユーモアによる笑いで救われていました。
私は一度だけ、どうしても我慢が出来ず、空腹を母に訴えて食べるものをねだりました。母は、これはみんなが食べる夕ご飯なのだ、と恨めしそうに私を眺めながら、しぶしぶ小さなお握りを作り始めた時、母は肩をすぼめて号泣したのです。ほんの一瞬でしたが、母の絶望的な泣きじゃくる姿に圧倒され、渡された握り飯をしばしよう口にしませんでした。
親は子供のために、陰で何度も泣くものですが、自分の為か私の為か、悲しみか恨みかは分かりません。とにかく悲惨な状況で飢えに泣く子を見て泣かない親は居ないでしょうが、一度だけ見せた女としての親の哀しむ姿は子供ながら悲壮でした。
口減らしを意識して、兄龍山はよく家を出て托鉢行脚をして家計を助けていました。居ないだけでそれだけで助けになると言う壮絶な時代でした。兄は南は九州から北は北海道まで、おおよそ全国を廻っていたようです。
私も遂に中学一年の夏休み、豊橋の全久院へ小僧として出されました。これも口減らしです。朝四時からの行事も、勝運寺を思うと、あの空腹の辛さがないだけ安らかでした。当時、全国のお寺お宮も農地解放によって、小作農制度廃止と共に困窮の憂き目に立たされていました。老尼はよく、「こうでもしなければ小作人は救われんよのう。働かずして食えるちゅうことが続くはずがない。因果無人じゃもの、何時かはこうなるのよ」と、制度の不自然さをそれとなく私に説いていたのです。
大智老尼も(記憶では老尼の部屋は薬臭くて衛生には喧しい人でしたが、随分良く成られていて、へなへなの病人という感じではありませんでした)百姓に精を出して生活を守られていました。時折義光老師も鍬を握られていましたが、如何にも手慣れた様に見え、ずっと鍛えて来られた様子が窺えました。
当時、栄養事情を鑑みて山羊や鶏、兔などを飼っていました。水運びと山羊の餌取りの主役は概ね私でした。勿論みんな分担作業で生活が成り立っていましたので、私一人という訳ではありませんでした。山羊はウバメガシの葉も実も大好物ですから、秋から冬にかけて草のない時期は、その枝を取りに鎌と縄を持って山に入る訳です。私が小学四年生の時でした。たった一度だけ山羊の餌取りに老師と山へ出かけました。私が失敗して、鎌の先が右足のスネに些か食い込んだ時、老師は咄嗟に私を背負い、急いで駆け下りられました。今もってその傷を見ると、時には言いようもない、とても有り難い背中を思い出します。
全国行脚の兄は、幾度と無く全久院の私を訪ねてくれました。方丈に気に入られて暫く逗留したこともありました。その時、私は加藤常賢門下での東洋哲学の学徒であり、田辺充三門下の西哲学徒でもありましたが、兄から幾つかの公案をぶっかけられて、知性では如何ともし難いもどかしさと共に、心底から擬議の念を抱くに到りました。私にとって、十年間のこの時代があったことを幸運だったと思っています。勿論全久院の素晴らしい方々に囲まれていたからではありますが、健全な緊張感と共に、他者に気配りをしなければいけない絶対条件下にあったわけです。それによって最も大切な人間的要素の一つを育むことが出来たのではないか。それ故に今日があるのではないかと思っています。
その頃、忠海の翫月山にあっては、思っても居なかったことが起こっていました。
義光老師の道力は隠せず、老師の法徳、声無くして人を呼び、慕って広島大学の学徒を初め求道の志士諸方の雲水参集するにつけ、常住的に修行が出来る道場を建立していると言うことでした。
当時の学徒、現在の立川浄州禅哲、高村雲外先生、新本豊三先生等々を中心にして、故森瀧一郎先生、故井上幹造先生等尊を屈して、托鉢や企業廻りなどして建設資金を調達し、往時の羽白新(あらた)忠海町長のご尽力により形を成していったのです。羽白町長は老師の深い帰依者であり、少林窟道場にとって忘れては成らない大恩人であります。
この茅屋の材料は、羽白町長のご尽力により大久野島毒ガス製造に関する倉庫を譲り受けて、車道無き当時、山門の下より参禅の諸氏によって担ぎ上げられて出来た物です。そもそも素材からして殆ど廃材であり、最低の仕立てですから将に老師の枯淡な家風に似合った茅屋の名に相応しい道場です。
斯くして義光老師の徳力により時節因縁純熟し、遂に昭和三十三年、茅屋ながら此処に箇の少林窟道場を中興し、その法義を宣揚されたのです。老師老尼は良く言っておられました。本来樹下石上で良い。雨露が凌げたらそれで良いと、篤満足されていました。
この年より小冊子「少林窟法語」が毎月発刊されるようになりました。当初ガリ切り、謄写印刷、製本、封筒作り、発送等は建立発端となった立川禅哲の若かりしおり、彼が主力となり、折々に各士の協力によって巻を重ねてきました。途中より立川禅哲が全資金を拠出され、印刷所によって制作せしめて永く是の法語が続いたのです。
然し両老師遷化により原稿不在となって終焉した次第です。昭和三十三年から始まり、平成二年十二月まで継続して全三十四巻一号に達しました。但し、老尼加療中の稿は重複せざるを得ませんでした。
私の全久院時代、毎月届くこの「少林窟法語」にどれほど励まされたことか。老尼より数行ほどの口宣と挟んであった二三百円の小遣い銭は、孤独な私を奮い立たせるに充分でした。
正式に私が道場へ掛搭してよりずっとこの法語に関わったきましたが、原稿を書かれる老師の綿密さは徹底していました。一字一点一画、只、単を錬るそのものでした。将に「吹毛剣」であり「吹毛常に磨す」の生涯でした。私は師のそうした綿密な身輪説法に染まりたくて、出来るだけ側でじっと見守り、只時を過ごしたものです。
毎日の食事はずっと勝運寺からの供養でした。平素は時代の通りで如何にもささやかな物でしたが、正月等特別な折りには、三段重ねのお重が供えられ、魚好きな老師には殆ど毎日のように魚が添えられていました。勝運寺の台所で全員がそのようなご馳走の有ろう筈もない状態でしたから、今、その時の様子を回顧するにつけ、法の為に良く尽くされたと感心しています。敬服の感を新たにするばかりでなく、健全な勝運寺あっての少林窟道場でもあることを再確認しました。いつまでも良好な関係で有ってくれることを祈っています。
若い時は酒豪だと聞きましたが、老師のお酒は極めて健康的でした。晩酌でも私が知る限りではフラスコのような小さなかんぴん一杯、量は一合足らずで、決してそれ以上は召し上がりませんでした。実に綺麗なお酒の人で、道場に上がられてからは日曜日だけでした。私にも忘れることなくグラス一杯を下さいました。決して自前でお酒が買える状態の私ではなかったし、毎日晩酌出来る経済状態ではなかったのです。そのお酒も両親からのお供えでした。
道場で住まいされるようになったのは晩年の事で、それまでは勝運寺の本堂の一室、東の室中(しっちゅう)と言う部屋でした。何もかも仮住まいと言った感じでした。道場の現在の単頭寮と、その隣の私の事務室や炊事場は老尼と私の手作りで、それがほぼ完成した頃、道場へ上がられました。昭和四十年(1965)のことで、老師八十三才、遷化三年前でした。勿論以前から道場へは天気さえ良ければ毎日上がられて勉強されていました。
現在の印刷室の隣りにある作業場から山手にかけては孟宗の竹藪で、今のように車道が付き、而も海山堂迄自動車が上がろうなんて夢にも思っていませんでした。世のうつろう凄さに痛感です。
従って上がったり下りたりの往来する道は、今ではすっかりその姿を消していますが、私の部屋の前のげしにありました。逆「く」の字に上手く出来ていて、当時は誰もが毎日往来していた、ちょっぴり情緒のある良い小道でした。その道しか無かったのです。
そこを着流しで、魚籠(びく)に本、新聞、原稿、小さなやかんと茶道具、煙草など必需品を入れ、それを右手に持ち、確かな足取りで軽快に上り下りされていました。
朝九時頃から昼食前まで、午後は夕方まで、今の相見の間が老師の居間だったのです。
昭和四十一年までは、山門の下迄しか車道なる物はなく、郵便受けは山門の片隅に有ったのです。老師老尼は心の訪れを大層楽しみにされていて、当時は午前午後と二度配達がありましたから、毎日通っては届けたものです。それを何とも思いませんでしたが、今は随分遠方だったなと思います。
何はさておいてもそれを受け取り、先に見るのは老尼でした。老師も老尼も即返事を書かれる方で、書いたら即出さなければ気の済まなかった老尼でしたから、私も呼応して、即出しに行きました。単を錬る機には事欠かなかったことを幸運に思っています。
昭和四十二年七月二十七日、老尼は金槌を右手にして、食堂の間に倒れていました。私が法光寺(神石郡神石町永野、福山からバスで三時間)から帰窟する寸前のことでした。この時、見たこともない母の俊敏で完璧な対応によって助かったのです。老尼を長年世話してきた昔取った杵柄だったのでしょうか。
当時の法友であり現在の化生寺住職 福井知宏師と現在の立川浄州師に電話したところ、忽ち現れた知宏師は、「老尼はお前一人の師ではないぞ! もっと気を付けて世話してくれ!」と到着早々きつく叱られました。少しの振動も避けるようにと、必死で指示する母に従い、彼と、前後して到着した立川さんと、たまたま帰っていた弟等で、老尼を担架に乗せ、しずしずと忠海病院へ搬送したのです。ようやく出来たばかりの勝運寺境内乗り入れの無舗装の道を下り、夕方に近いあの往還を通るに当たって、一台の自動車にも遇わなかった静かな時代でした。
取り敢えずで飛んできてくれた知宏師は帰り、立川さんと母が老尼に付き添われ、老師と私だけの薬石の時をむかえました。食事をしながら、何の変化もない平素のままの老師は一言、「うん、大智の法は実に惜しいなあ。然し、ああなっちゃ駄目じゃわい」。私は言葉がありませんでした。
出来たての車道へ始めてタクシーを呼び寄せたのは老師でした。毎日午前か午後か、老尼を見舞う為です。私も毎度お供をして行きました。一年半の後、老尼は完全に復活され、正法護持の安泰を得ることが出来たのです。
当時の勝運寺には見事な桜が何本もありました。翌年の四月初旬、見事な満開の桜の元で、おぼつかないながら歩けるようになった老尼を囲み、お疲れであろうと老師の激励会をしてくれました。両親兄夫妻等勝運寺の皆さんが催して下さったその宴が最後となってしまったのです。そんな一大事が有ろうなどと誰も思うこともなく、次第に回復される老尼に安堵してか、誰もが充分に酔いしれました、貴重な一日とは知らずに。
この時、我が娘(薫)はこの世に出現して僅かに一ヶ月半、老師の名付けの最後の人であり真に幸運な娘でした。老師に抱かれた写真は、無論親にとっては掛け替えのない宝物となりました。
宴も十日が過ぎ、すっかり寒さを忘れた暖かな日、老師が心地よく入浴された時のことです。風呂は開単当時の侭の五右衛門風呂でした。私はいつものように老師の背中を流し、足の指の一本一本まで洗っていたら、「近頃妙に下腹が出てきましたわい。はっはっはっ」と、その腹をぽんぽんと叩いて見せました。そう言われればスマートな体形にしては少し腹が出ているかなと思ったくらいで、私が何の不安もなく被着を手伝い終えると、老師は静かに午睡の時を迎えられたのです。
何日かおきに主治医が訪れては血圧等を計って下さる時、ふとその事を話すと、浅野先生はすぐにお腹を診られるや、注射器をお腹に刺して腹水を抜き取りました。それをかざして観た先生は、「済みませんが是れを持って付いて来て下さい」と私に手渡し、いつもになく手早に道具をしまい挨拶されるや、下に止めてあった自動車のハンドルを握られました。渡された通りの姿勢で先生の診察室に入るや、直ぐさま顕微鏡を取り出して細胞診した先生は、
「これは大変なことになりました。腹水に血液が混入しています。腹膜炎を起こしたら大変です。恐らくはガンです。紹介しますから直ぐに忠海病院で精密検査を受けて下さい。」
「先生、若しガンでしたら、寿命はどのくらいでしょうか?」
「そうですね、三ヶ月でしょうか。」
「えっ! 三ヶ月!」
老尼の回復で全山が明るい気持ちになった矢先、又々暗い沈黙の日々となったのは言うまでもありません。直ぐに入院となり、三日の後にガンと診断された院長先生が、本人にどう説明するか苦悶されていたので、
「先生、はっきりガンだと言って下さい。その方が私達も今後がスムースですから。相手は悟って居られる方ですし、生死の問題はとっくに決着が付いて居り、何とも思いませんから心配要りませんよ。」と私が言えば、益々困惑されていました。
「後ほどご連絡致しますので・・・」と院長先生。
「あっ、そう。」と老師。帰窟するや床に入られました。既に疲れやすくなっていたのです。事の次第を全て老尼に伝えると、老尼は、
「そうか。それならそうだと私が話しておこうよ。お前は坐れ。」老尼は身体がふらつきながらも既に獅子吼すること自在で、この確かな自信を見た時、私がどれ程安堵したことか。
翌朝、何時もの通り禅堂から出て老師の部屋へ入ると、いつものようにきちんと正坐をされ、お茶を入れて私を待って居られました。お茶を飲み干すと、いつもの静かな口調で、
「わしはガンじゃそうだな」
「はい」
「それじゃ、うかうかと寝てはおれんな。それまでに書きくさしを書いておかねばならんから・・・」
「老師。死に急ぎされては僕が困ります。疲れた時はちゃんと休んで下さい。」
「あっ、そうであったなあ。はっはっはっ。」
「僕も頑張りますから。」
「そうだったな。じゃ、飯にするか。」
まるで人事のように、それからも淡々とそんな日を重ねている内に、聞きつけた見舞客が、一日おきぐらいの程良い間隔で現れました。みんな禅者だけあって、実にあっけらかんとして、
「老師、まだ末期ではありません。が、死ぬ気分はいかがですか?」井上幹造先生の息子さんで、瀬野川病院院長の井上先生は一通りの診察をしてそんなことを言う。
「はあ、それでか。ガンは痛くて辛いと聞いて居るので、今か今かと待っていても、一向に音沙汰がないので変だなと思っていましたじゃ。わしはともかくも、先生、人の死ぬのばかり診てきて、自分の方は?」
「いや、是れは困りましたな。しかし、老師の境界、良いですな・・・」
「そんなもんですか、はっはっはっ。」
岡山の熊谷病院院長の浅羽先生は、医者の息子と共に現れて診察し、
「老師、肝臓へも転移してますな、これは。」
「ああ、そうですか。まあ、そんなことでしょう。ところで、奥さんが亡くなられて何日ぐらい経ちますか?」
「はあ、半年ぐらいですかな。老尼さんは随分良く成られましたですな。」
「本当じゃ。お陰様で・・・。これがしゃんとしてくれんと、安心して死ねませんのじゃ。はっはっはっ。」
「私も早く老師の様に成りたいもんですな。はっはっはっ。」
これは看護する者にとって非常に心地よい一時でした。端的は人も老師も生も死も無い。その時限りの一時の様子に過ぎず、後先どうなるとかの計らい無き巨匠の偉大さをまざまざと観ました。
又親族の一人がやってきて、ご機嫌を窺った。
「わしの死ぬのを待って居るのか。その気分はどうだ?」それを聞いた御仁は居たたまれず飛んで下りていきました。
やがて衰弱度は増し、遂に御自分の身体さえ支えられなくなりました。必死の思いで作ってきた老師の為のご馳走を、母はせめて一口でもと泣きそうな顔をして口へ運ぶのですが、呑み込むどころかぽろりと胸元へ落ちてしまうばかりでした。後ろから支える重みは日々に重く、息すら辛い様子に見えてきました。
御自分の身体さえ支えきれずしてぐらぐらなのに、老尼は注射器等を私に煮沸消毒させて、それらを巧みに操り、まるで枯れ木のように痩けた腕に、ブドウ糖やビタミン等を見事に静脈注射をしていたのです。それをじっと観ていた北海道の住吉医師は、
「何と言う人だ! 自分があんな身体なのに。老尼は全く分からん。しかし見事なものですね! はーっ!?」
しかし、今やそんな気休めさえも届かなくなった老師を観ていた老尼は、突然、
「老師! もうすぐ涅槃大寂定門よ! 大丈夫?」あっけらかんと耳元で、そう叫ばれたのです。さすがだ! 老尼の真骨頂、活発発地(かっぱっぱっち)を目の当たりにしました。
老師はどう出るか! 是れに対する応答にも期待してそれを待ちました。師の死は如何にと弟子が見守ることは、将に身を挺して死を語らんとする師を、決して見逃す訳には行かない一大事因縁だからです。すると老師は、
「お前、誰に言っとるのか!」最後の獅子吼でした。さすがだ! 部屋一杯に聞こえるしっかりした声で締めくくりました。やはりそうか。生也全機現、死也全機現。老師の境界確かに見届けた、素晴らしい! それを聞いた老尼は、
「じゃ、大丈夫だ。そうでなくちゃね、老師。良し良し!」何と言うことだ! まるで引導を渡し終わった威厳が在る! よろよろしながら何となく嬉しそうであり、そこには病人を感じさせない巨大な自信力が、老尼の全身に溢れているではないか! 此処に老尼有り! 大法は大丈夫だ! 今、師を送らんとする最大の悲しみの時、心にぱっと明るい灯がともった喜びも真実でした。
お昼少し前の、巨匠同士の生死をかけた最後の話頭は、日々是好日、露堂々でした。それ以後声を発することなく、静かな眠りに入られ、脈は尚安定していました。
北海道その他から一月前より、看護を兼ねて集まっていた人数は凡そ二十人。勝運寺も大変だったはずです。
午後一時近く、百二十と高まった脈が、やがて夕日の沈むように静かになり始めていました。そこにはもう老師は居ませんでした。では何処に? 探したら見つかりませんぞ。
私は窓から身を乗り出して金切り声を発していました。
「みんな早く来て! 急いで!」
あっと言う間に部屋一杯になっていました。
昭和四十三年六月十五日、午後一時十分。昭和の祖師ここに遷化。八十六才。
急を聞いて諸方より雲集した道の諸士。老師の示寂を悲しむと同時に、毅然とした老尼を観て安堵したようでした。
老尼は老師のご遺体を背にして曰く、
「いいですか、老師は身を挺して無情説法されたのです。無常の端的、他に非ず。供養は本当に只管打坐して、本当の法の人に成ることですよ。悲しむ莫れ、憂える莫れ。只、道を道とすれば足れり。今、只坐りなさい。」
これこそ、大病より復活して少林窟道場第四世、照庵大智老尼の初の大説法でした。この時、老尼六十六才。山僧二十八才でした。
五百年間不出世の巨匠飯田欓隠老大師。その真嗣、翫月山中孤高の祖風を任じて三十年。是の間、一箇半箇の真人打出専念の生涯でした。時の曹洞宗宗務庁より、師家養成の師家にと懇請されましたが遂に出でず。静かに法燈を掲げて一日となし、是の山中に閑居して分外と為さず。是の如き一真人の生涯は、正に老古仏の行履にして真の古仏です。
遷化されてより三十六年が経巡り、改めて義光老大師の真面目に思いを致し、師の道風謦咳を新たにして永く法界に資助致したくここに上梓した次第です。
老大師の暖皮肉は只菩提道心に有って他無し。乞い願わくは、老大師の慈悲法乳を垂れ給いて恁麼の消息、功功無功の承当有るのみと。是の稿に幾度か涙す。胸中や胸中。参。
浅田幽雪禅哲、高田月祥居士各位の甚大なる資助に深謝極まりなし。合掌。
平成十六年五月三日
少林窟第五世
元光希道 謹言九拝